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好ましい価値観に沿えない自分をどうしたらよいものか?

命は美しいけれど、
生きることは、たぶん醜い。

命は、清濁。
現実は否応なしにやってくる。
望まない選択を迫られることもある。
心は汚れる一方だ。

なので、心の弱さや醜さを許容する。
自分を赦して、晴れやかに生きてゆく。

それが、心地よい生き方なのだろう。
そう思っていた。

けれど、赦すなんてものじゃない。
生きることそのものが、醜悪なのかもしれない。

人は変化するものだし、成長を望むもの。
だから、よりよく生きたいと願う。

けれど、皮肉なことに、
よりよく生きようとすればするほど、
命は穢れてしまう。

自分で決めた人生に沿って生きようとすれば、
今日の自分を拒絶することになる。

向上心を言い訳にすれば、認めなくて済むから。
グータラで、賢くなく、利己的な自分を。

今日の私以外に、自分なんていないのにね。

わかっているのに、全力で今の自分から目を逸らそうとする自己欺瞞。

それが、命を穢してゆく。

ジャッジや価値観なんか単なる好みだ。
変える変えないは、問題じゃない。

その価値観に沿えない自分を責めること。
それが、穢れの原因。

自分を裏切ることも、罪悪感も、
こうなりたい自分から外れているから。

自分が選んだ基準に沿って、
なりたい自分になれたとしたて、
どうしたいんだろう?
何になりたいのだろう?

出来損ないの今日の自分から目を背け、
成長したところで、なにがある?

手に入れた自分のベースが空っぽなのに。


正直なところ、
今日の自分を好きにはなれない。

私の好む価値観には、ハマっていないから。

…それがなんだというのだろう?

私の好む価値観に背いているからといって、
好みの価値観で生きようとすれば、
演技するしかなくなるし、
それが嫌なら、価値観を変えるしかない。

ただ、価値観は好みの問題なので、
変えようとすると、感情と思考が拗れる。

そんなリスクを冒すほど、
認められないものだろうか?

最低な自分だとしても、それが現実なのに?

最低だと思っている価値観も、
個人的なジャッジに過ぎないのに?

現実には、今日の自分しかいない。

変わる努力を続ければ、
いつかの今日には好みの自分に
なっているかもしれない。

そして、すぐに別の自分になろうとするだろう。
認められない自分は、そのまんまだから。
別人格を強化しているだけで、
心が弱れば、本性が出てきてしまう。

私の中にある強烈な個性は、
あまり質の良いものではないから。

変わろうとしても、
さほど変わらないかもしれないし、
変わりたいなら、質のよくない自分を
認めるしかないのだ。

認めさえすれば、自分を責める量は格段に減る。
だって、そういう下劣な人間性が私自身だから。

価値観にハマらない自分を責めるから、
心が穢れてゆく。

ただ、自分であるだけなのに、
罪悪感が溜まってゆく。

命に善悪はない。あるのは、美醜。
命は、美しいのかもしれない。
生きることは、醜い。

けれど、醜いことは、悪いことではない。
よく生きることは、自分のためとは限らない。

私にとって生きることは、
自分の醜い本性をえぐら出されること。

見るに耐えない自分。
見下して、軽蔑している自分を
生きなければならないということ。

その程度の人間であるということ。
絶望しているのは、人生に対してではなく、
人間の本質に対してなのかもしれない。

そして、その絶望は、
作られた価値観に従っているから。

メリットのある価値観なのだろう。
けれど、人間に絶望してしまったら、
生きている必要すらなくなってしまう。

私の本性はよろしくないけれど、
人を傷つけたくはないし、
ズルをすれば心は痛む。

価値観より、良心を信じてみよう。

本質を生きようとすれば、
醜い本性は隠せないし、
それ以外では生きられない。

表に出せば、嫌悪する人もいるだろう。
隠していた時の私が、そう思ったように。

けれど、私の持つ劣悪な人間性は、
多少なりとも誰もが抱えているもの。
私だけの資質ではない。人としての本質。

醜さを恐れなくていい。
美醜は主観だ。

本質的な美しさは、私にはわからない。
なら、醜さを見極めることだってできないのだ。

今日の私を恐れず、責めず、
気楽に生きてみようかな。

 fumori 






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