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罪悪感に苦しむのは、善良さ故なので、赦されているし、愛されている。だから、苦しむことにした。

エゴは、感情を生み出す。

苦しみや辛さだけでなく、
喜びも幸せも生み出すことができる。

エゴが満たされると、天にも登る気持ちになる。
到達が困難なだけに、喜びもひとしお。

そんなご褒美があるから、
エゴを手放せないでいる。

気まぐれに与えられる飴がとんでもなく美味しいから、辛い鞭にも耐えられる。

エゴが生み出すポジティブな感情に依存している。ポジティブ中毒なのだろう。

ネガティブな感情に引きずられないためには、
ハイテンションなポジティブを諦めること。


そして、全ての感情は、
エゴが生み出していると認めること。

自分を守ろうとするエゴの全てが悪いわけではない。悪意や敵意のある相手に対して、自分が悪いなんて思っていたら、付け込まれるだけだ。

けれど、自分のエゴと相手の悪意の見極めがつかない現状では、先ず、自分を疑う。

そして、ネガティブな感情は、
傷ついた過去が生み出している。

受動的な過去のトラウマは、
手放せる限り手放した。

残っているのは、手放してはいけない過去。
癒されてはいけない類の過去。

避けようのなかった受動的なトラウマではなく、
選ぶことができたのに、選ばなかった背徳感。

本心では、そうすべきだとわかっていたのに、
流されてしまった罪悪感。

仕方がないでは済まされない裏切り。

弱さ。狡さ。無責任さ。

現実的にどうしたらよかったか、とは別の話。
問題は、自分自身を裏切ったこと。
それを、正当化して、認めていないこと。

ネガティブな感情の源。
それは、私の代わりに罪の業火に焼かれている。
あの時からずっと、苦しみ続けている。
そして、目を背け続ける私を決して逃がさない。

私の罪を繰り返し責め立てるのは、私だろうか?
私の代わりに焼かれ続けているもう一人の私。
二つなら、命かな?

現実の命と、神性としてのミコト。

神性や仏性は、人質。
私が犯した罪から逃れる度に、
身代わりとして業火に焼き続けられる。

現実的には難を逃れたとしても、
罪悪感が刺激される度に、
ネガティブな感情が沸き起こり、
現実を不幸にしてゆく。

私の代わりに罪を背負い続け、
命である私は、罪を免れ、
新たな罪に苛まれ、生き続ける。

なんでそんな生産性のないことをするんだろう?

罪を犯して逃げ続けるだけの命を
生かしておく価値なんかあるのかな?

まあ、自分の命のことなんだけれど。

たぶん、価値があるから
生かされているのではないんだろう。

私の価値観では理解できないし、
価値があるとは思えなくても、
私の命は赦されているのだろう。

私の代わりに罪を背負う存在があって、
私が現実に苦しんでいるのなら、
私の命は赦されているということ、かな?

生かされているし、愛されてもいるのだろう。

だって、罪を犯してしまうのが人間だから。

わかっていても罪を犯し、
自分の犯した罪に苦しむこと。

苦しむことができること。
それが、人間の美徳。
善性の証なのかもしれない。

ネガティブな人間だから、
嫌われるわけではないのかもしれない。

ネガティブな感情を相手に押し付けて、
無意識に救われようとするから?

罪を犯すのが、人。
苦しむことが、善性。

だから、苦しんでいるのに、
生かされてしまうのかな。

苦しむから、
赦されて、愛されているんだろうね。

今の私では、気づくことはできな赦しや愛が
この世界に存在しますように。

 fumori 

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