ネガティブな感情の行き場をつくる。
はい。わかってはいるのです。
ポジティブシンキングが、
人生に与える効能は、理解してます。
だからこそ、ネガティブをもたらす価値観を変えようとしてきたし、ある程度、フラットな状態で居られるようになった。
無意識でいると、即座に過去の後悔や恨みや苛立ちや悲しみに囚われてしまうけれど、その割合も随分と減った。
囚われていることに、
気付きやすくなったのかも。
ほらね。
捉え方が、もうポジティブでしょう?
皮肉を言う暇がないくらい、サクッとポジティブな事を言えるようになってる。
素晴らしい成長っぷり。
ただね…
だからと言って、ネガティブな感情が浮かばないわけではない。
感情にいいも悪いもないとは言え、ポジティブに軸を置きたいもので、ネガティブな感情を嫌悪してしまうんだよね。無意識に。
過去のネガティブは、ほぼ、
「うわ。わた捕まってた」
で済ませられるようになったけれど、未来に関するネガティブは、行き場がない。
「死」と「不安」
こっちは死にたくもないのに、
事あるごとに「死にたい」と言われる。
これからどうしよう?
答えがあるなら、やってるんだから、聞かないでよ。むしろ、聞くぐらいなら、答えが持ってんでしょうね?
言ってよ。教えてよ。
行き場もなく、答えもなく、ただ、言いたいことを言って、私を怯えさせるもの。いい加減、ビクついているのがバカらしくなってしまった。
ネガティブな感情に囚われないようにしよう。
と、思っても、取られてしまうので、それがナチュラルな反応だとしてしまおう。
できないことは、しない。
他の人にはできることでも、私に出来るとは限らないんだから。
そして、受け取ることにした。
死にたいという、恐怖を呼び覚ます感情を。
よくないのかもしれないけれど、巷で言われていることが、私にフィットするとは限らない。
間違っても、いいじゃん。
私が被害を被るだけだもの。
受け流すのではなく、受け取る。
生まれたままの感情を手のひらに乗せてみる。
それは、確かな、私の感情。
そうだったんだ。
ネガティブな感情も、私自身だった。
私自身の自己表現の一つ。
アートだった。
ネガティブな反応な怖かっただけで、
ネガティブな感情は怖いものではなかった。
価値観が恐怖と結びついているだけだった。
どんな感情も、現実との対話によって生まれる。
感情は、現実の返事に対する反応。
判断されるようなものではなく、
価値観から生み出されるアートだった。
感情の全てが、私自身。
なら、全部の感情を、表現しよう。
もちろん、腹の中で。想像の世界で。
現実に口にできないのなら、
心に表現できる場所を創ってみよう。
思い浮かんだ言葉と、
その言葉から引き出される感情。
ポジティブも、ネガティブも、
あらゆる言葉は、感情を伴う。
その言葉を表に、
感情を裏に書く。
色とりどりの短冊にしたためたら、
笹の枝に吊るそう。
七夕の笹。
心もとないほど細い竹。
シャープな笹の葉。
風に音を立てる硬さと、しなやかさ。
頑固で、他者の価値観を傷つけるくせに、流されやすい。私そのものだ。
けれど、風に揺れれば、爽やかな葉音を立て、
蹴られても跳ね返すしなやかさがある。
そして、年に一度、願いを叶える。
怖かったのは、それかな?
願いが叶ったら困るから、ネガティブな短冊は書きたくなかったのかもしれない。
なら、クリスマスツリーのオーナメントにしてもいい。
いや。もっと単純に、ネガティブな短冊を吊るしたら、それが叶わないように願いを足せばいいんだわ。
思考が願ってはダメって決まりはないもの。
感情の短冊で派手に飾られた笹は、七夕にリセットされる。私の中にある全ての感情を出し切る。
意識的に感情をデトックスしてゆく。
この一年は、どんな感情も受け取って、笹に飾ってゆこう。感情を迷子にさせたり、無視したりせず、全部を飾ってみる。
心を軽くしてゆく。
ほんの少しでも、ナチュナルな自分でいられる時間を長くしてみよう。
fumori
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