教えることの優越感。与えることの自己満足。
与えることは、よいこと。
そんな根強い価値観があるのに、私自身はお節介な親切が苦手だ。
空気の読めない私は、相手がどう思うかも考えず、要らないものは要らないと言っていたのだが、大人になり、相手の気持ちを汲むのはよいこと、という価値観が追加され、なんでもありがたく頂くことにした。
そんな上辺の社交術のせいで、欲しくもないものを有り難がる自分がどんどん嫌いになっていった。
その自己嫌悪は、要らない物を押し付けようとする相手への憎しみに変わっていったのだから、タチが悪い。完全なる逆恨みでした。
ごめんなさい。
問題は、社交ではなく、身の丈に合わない価値観のチョイスと、外部から取り入れなければならないほど自分に何もなかったこと。
社交であれ嘘をつくなんて無意味だ、という信念があれば、気持ちを汲み取った上で、断ればよかったのだし、嘘をつく気持ち悪さよりも、相手の気持ちを尊重すると決めたなら、社交に徹することができただろう。
自分を通すのであれば、相手から嫌われるリスクを引き受けることにはなるけれど。
つまり、相手から嫌われたくないから、断れなくなったということかな?
相手の気持ちを尊重するとかじゃないんじゃん。
すぐ自分をいいもんにしようとするんだから…
嘘はつきたくないけれど、人からは嫌われたくない。だったら、相手も喜ぶし、喜んでいるフリをして、貰っておこう。
でも、なんだろう。
ものすごくゲンナリする。
ものすごく嫌な気分…
ということは、自分を裏切っていたということで、私は、嫌われても要らないと言いたいタイプなのだろう。
だから、嫌われるのかな?
元々、好かれてないのだから、
今更、変わらないか。
人のためにできることをする。
私も、そんな人間でありたいと思っている。
けれど、傲慢を承知で言わせて貰えば、与えられることを負担に感じることもある。
自分がされて嬉しいことを相手にもする。
それを基準にしてきたけれど、それこそが、親切を押し売りしてしまう元凶のような気もする。
私の価値観を相手に押し付けていただけだから。
つまり、私がされて負担だった親切は、別に押し付けたかったわけではなく、欲しかったとしても礼儀として何度か断るという価値観を持っていただけなのかもしれない。
どうだろう?
そうとは思えないけれど…
そういうことにしておこう。
価値観の違いによって、良かれと思った親切は押し付けとして受け取られ、要らないと正直に伝えただけなのに、嫌われていると判断されてしまったりする。
どうしたら相手にとって、ベストな手助けができるのだろう?
気持ち良さかな?
教えたり、与えたりって、気持ち良かったりする瞬間がある。
基本的に、優位に立てるから。優越感?
いいことをした、と思える満足感もある。
けれど、それって、教えられる人が上手いんだよね。気持ちよく教わってくれるというか。
下手に出てくれるし、知らないことを知った喜びを表現してくれるから。
教えられる立場としては、知らないことを教えてくれる人より、知ることで喜び感じる自分に出会わせてくれた人を尊敬するよね。
与えられるからって、なんでも貰えば嬉しいわけではなくて、欲しかったものをもらうから嬉しいんだよね。
物ではなく、貰った相手への憧れとか、尊敬とかもあるか?
なら、教えることって、
相手の好奇心を満たすこと。
与えることって、
相手のニーズを知ること。
そして、尊敬がその対価なのか。
相手の喜びが、自分の喜びだと思っていたけれど、もっと素晴らしい対価を得るチャンスだったんだな。
そんな先生に出会えた人は、幸運だな。
出会っていても、気づかなかっただけかもしれないけれど。
好奇心を満たす。ニーズを知る。
他者の前に、先ずは自分かな。
私は、なにを知りたいのだろう?
まだ体験したことのないことって、なんだろう?
今、なにが欲しいのだろう?
この人生になにを求めているのだろう?
この体を使って、なにを得たいのだろう?
迷わずに、あれこれ列挙できるくらい好奇心旺盛になれるかな?
これさえあれば幸せと思えるコアは、満たせているのかな?
なるほど。
結局、自分が分からないから、他者もわからないんだな。線引きしても、これでは比較しても基準がないままだから。
基準を自分の価値観にする。
線引きして、比較して、価値観の違いを楽しむ。
そんな日常を過ごすことができますように。
fumori
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