好きなものを好きと言う。
嫌いなものを、嫌いと言うより、
好きなものを主張する方が難しい。
非難されたら、傷つくから?
どうだろう。傷つきはしないか。
他人が何を好きであろうと、「ふーん」で済む。
何を好きかどうかは、個人の自由だ。
済ませられなかったのは、子供の頃の私。
言いにくいことだけれど、私は人の好きなものをバカにする癖があった。
嫌な子供だった。けれど、それだけ好き嫌いがハッキリしていたことを、羨ましくも思っていた。今の好きには、理由が不可欠だから。
理屈なく好き嫌いが言えたあの頃の自分に戻りたい。そう願っていたけれど、少し違和感を感じ始めている。
あれは本当に私自身の価値観だったのだろうか?
私が好きだと主張していたものは、誰かにとって好ましいものだった気がする。
私自身は全くいい子ではないし、ワガママで、主張が強い子供だったけれど、だからといって、その全てがオリジナルだったのか?
そもそも、好きだと思って、それを確信していたのなら、主張する必要なんてない。
誰かの承認もいらない。
誰かの好きなものをバカにするなんて無意味だ。
好きという気持ちは、個人的なもので、無理に誰かと共有しなくてもいいはずなのに。
私は、言いたいことを言っているようで、本当に言いたかったことは、言えなかったのではないだろうか?
言えないから、好きなものを好きと言える相手をバカにして、口を封じようとしてきた?
なんのために?
傷つくことより、バカにされることの方が耐えられなかったのは、私だから?
平均的な答えでないこと。
普通でない自分。
周囲との違和感。
一般的でないという自覚。
物心ついた時には、そんな嫌な子供だった。
無自覚なまま、自己嫌悪や罪悪感にまみれていた気がする。
自分自身への恐れ、みたいなもの。
私が好きなものって、なんだったのだろう?
あの頃、好きだと言い張っていたものの中に、私個人の好きがあったのだろうか?
全く自信がない。
好きという感情そのものが、欠落しているみたいに思えるのだけれど…
そんなことってあるのかな?
好きなものがないとか、あるのかな?
人と同じものが嫌いだった。
人気のあるキャラクターとか。
人と被らないものが好きっていうのは、好きとは違うよね。個性的な自分が好きという演出。
あんなに好き嫌いを主張していたのは、逆に好きなものがなくて、焦っていたのかな?
好きなものがある人を羨ましかったのかな?
普通でないことへの自覚。
そんな自分への嫌悪。
こんな自分で申し訳ないという罪悪感。
好きなものを選ぶことさえ罪深いとか思ってるのかな?
私の好きなものは、
誰かが持っているもの。
誰かが好きなもの。
誰かがよいと言ったもの。
…だけ?
子供の自分を取り戻したら、理屈に振り回されずに、好き嫌いを守り戻せるかと思っていたのだけれど、もしかしたら、そもそも私の中には、無かったのかもしれない。
どうしようね?
好きを仕事にとか、自分軸とか、これでは選びようがないじゃない?
…むしろ、なんでもいいのかな?
いや、それは違うか。
嫌なことならわかるけれど、そっちから探ってゆくとすると、選択肢が広すぎるし…
でも、それしかないのかな?
好きなことって、死ぬまでに見つかったらラッキーなくらいにレアなものなのかな。私には。
自分の好きなことがわかる人が羨ましい。
好きなことを知っていることって、凄いことだ。
なので、今後は、好きなことを好きと言える人を、心から尊敬してゆこうと思う。
自分がされたくないことは人にはしない。
そう思って生きてきたけれど、大人になっても誰かの好きをバカにしてきたのだと思う。
何が好きでも個人の自由、とは思えたけれど、好きと表現できる勇気や、自己理解の深さをリスペクトしてはいなかった。
結局、無視していたのと同じことだった。
私は、自分の好きなものがよくわからない。
だから、好きなものを好きと言える人を尊敬しているし、いつか自分もそうなれることを望んでいる。
fumori
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