痛ましい幸福感が、存在肯定だったみたい。

「何もない今の方が幸せ」なんて、
負け犬の遠吠えだと思っていた。

欲しいものはあるに越したことはない。

未だにそう思うのだけれど、
仕事も貯金も若さも健康も失った今の方が、
不幸せとは言えなくなってしまって、
なんとも始末が悪い。

現実を諦めることで、欲望が鈍り、
僅かな幸福感でも満足できるようになった
としたら、ちょっと痛々しいし…

そんな痛ましい幸福感について、語らせて欲しい。 


ある程度の欲求が満たされると、
人は自己実現を求める、という説がある。

私ももれなく虜になった。
幸せなはずなのに、
幸福感を感じられない病を患っていた。

なので、
より幸せに成りたいからというより、
不幸せ感をなんとかしたくて、
自己実現を求めた。

自分の中にある不足感を補うための
アイテムというか、ブランドというか。
それがあれば、幸せそう。
自信が持てそう。
高見えさせてくれそう。

つまるところ、
承認される私になれそう、です。



承認欲求は、
補っても満ちることのない渇望。

満たされたままでいたいという欲望が、
不足感を生み出し、更に渇きが増す。
自作自演の喜劇。

幕が上がっている間は、
このままでは命が尽きるんじゃないか?
なんて恐怖を覚えるくらいに喉が渇いて
しかたがないのだけれど、
あくまでもお芝居。劇中の役柄。

満たされた状態をデフォルトにしているから
渇いているように感じるけれど、
実際は潤いまくっているのですよ。

目の前に水道があるのに、
産地指定のミネラルウォーターじゃなきゃダメとか、
キンキンに冷えたコーラがいいとか、
そんな勘違いセレブ発言をしているようなもの。

本人は信じ込んでいるからパニック寸前。
なのに、
周囲からは単なる我儘にしか見えない。
世間は冷たく、世知辛くなるよね。

私にとって自己実現は、幸せの象徴。

ミネラルウォーターとかコーラであって、
水道水ではなかった。

いつからか、水を飲むようになった。
喉が渇くこともなくなり、
自己実現の残骸が、
蜃気楼のように揺らいでいる。

幸せは手に入らなかったけれど、
底から漏る汚水は止まった。
濁った水は流れ去り、徐々に薄まり、
今では鏡のように澄んでいる。

飲んだら美味しそうだけれど、
喉は渇いていないし、
ここに来ればいつでも飲める。
安心して、水辺の風景を眺めていられる。

水場を探さなければ。
溜めておかなければ。
なくなったらどうしよう。
そんな欲と不安が消えたら、
世界は案外、キレイだった。

現実はなにも変わっていないし、
完全に負け犬のままなのに、
不幸せ感は薄らいでいる。

幸福とまでは言えないけれど、
不幸せでなくなったのなら、
これでいいんじゃないか、と思ったり。

そりゃ、努力せずに大金持ちになったり、
やりがいのある仕事で成功しているとか、
家族が仲良く健康でなんの心配もないとか、
妄想や願望に未練はタラタラあるけれど、
自己実現で求めていた幸せは、
つまるところ、認められることだったから。

お金や仕事や成功や人間関係そのものではなかった。

ここにいることに気づいて欲しかっただけ。
今に、安心していたいだけ。
不幸せ感が薄らいだのは、たぶん、安心したから。

自己実現を求めていた頃の私は、
不幸せというより、不安だったのだろう。

欲しかったのは、幸せではなく、安心感。
私は、安心すると幸せを、
不安だと不幸に感じるのかもしれない。

なら、願いは叶ったのかな?

幸せになりたい。
それが、自己実現の始まりだった。
安心感が幸せなら、
今の自分に安心していられるって、
結構、図太い。心強いとも言う。

何もない負け犬ですし、
自慢できるようなものもなく、
あるものは失われてゆくばかり。
誰かに認められる要素なんかない。

なのに、そこそこ安心していられるのは、
認められるようになったのかな。
自分で自分を。
ここに存在していることを。
何もしなくても、ここにいることを。

存在することを赦せるようになったのかな。

なら、それこそ自己実現なのでは?

もしかしたら、痛ましい幸福感は、
自己実現の成れの果てなんかじゃなく、
到達した証なのかもしれない。

 fumori 

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