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淋しさは、自分の存在を証明したかったから。

私たちは、二つの世界を生きている。

現実を解釈する際、世界は二つに分かれ、どちらかを選ばされてしまう。無意識に。

そして、選んだ世界に生きている限り、もう一方の世界を見ることはできない。世界は二つあると、信じられない限り。根拠がなくても。

なので、不幸を感じることができるなら、必ず幸せを感じられる世界も存在している。

…という世界観を信じることで、なんとか生き伸びている。

とは言え、それらの世界も意識がクリエイトした幻想。たぶん、どちらもリアルではないのだろう。信じられないけれど。

自分で創り出すことができるのだから、いくつあったっていいのだけれど、私の世界が二つなのは、シンプルなシステムで、簡単に感情を増幅させることができるからじゃないかと思っている。

意識が意味を与えることで、感情は沸き立つ。

なら、価値観をプラスマイナスに置き、どん底を経験させ、その後、気づきを与えて、ハッピーにさせる。

感情の幅があるほど、自我の刺激に依存してゆく。二つの世界を行き来することで、エゴ中毒は加速し、抜け出せなくなる仕組み。

さて、どうしたものか。

そもそも、なぜ、
相対的な世界観を創ったのだろう?

比較しなければならなかったのは、なぜだろう?

価値観に揺さぶられて、苦しむだけなのに…

自分を知るため、かな。


与えられてきた価値観を手放して、
何もなくなってしまった。

やりたいことは、ぜんぶが承認欲求だった。

私という意識は幻想で、
命とその器である肉体が存在しているだけ。

その命は、今であり、光であり、
愛であり、全てがある状態。

なので、命にとっては、やりたいことも、
生きることも、死ぬことも、意味はない。
なんでもいいし、なんでもあり。

そんな自由を手に入れてしまって、
持て余している。

ずっと願っていたことで、後悔しているわけではないのだけれど、自由を使いこなせずにいるという、なんとももったいない贅沢な状況。

一方の自我は、貪欲だ。

自分に対する未練。
自分を大切にしたがる淋しさ。
快楽をむさぼりたい欲求。
いちいち刺激的で、魅力的。

自由を好き勝手に自我に使わせていると、
命が対価を払うことになる。

命は喜んで身代わりになってくれるのだけれど、なぜか苦しみを感じるのは、私という意識だったりする。
罪悪感や後悔に成り代わり、時差で心をえぐる。

本当に、自我には無駄がない。
一つを選べば、もう一つおまけがついてくる。
もれなく。いいことばかり選べない。

なので、そろそろ、相対的な価値観は
止めたいのですよ。疲れるから。

なんでもありな自由な視点で、
命みたいに雄大に生きてみたいのです。

それなのに、つい比較して右往左往してしまうのは、なぜだろう?
自我に固執しているから?

自我は、淋しさから自分を守るために作られた。
というか、私が作った。

幻想の私が、比較の価値基準を採用しているのは、淋しいからで…

そもそも淋しい気持ちも幻想なのだけれど、なぜ、そんな悲しい気持ちを抱えてるんだろう?

わからないから。自分が。

わからないから、淋しくて、悲しくて、不安で、怖くて、自分を知るために比較の価値観を創り出した。
相対的な価値感で揺さぶって、自分という概念を創り上げるため、かな。

自分がいないから、自分を創り出すことにした。

世界の人々はみんな個性的で、
自分があるように見える。
なのに、私には自分がいない。空っぽだから。

もしかして、存在否定って、これのこと?

いないものを、いると証明しようとして、できなくて、自己嫌悪じゃ辻褄が合わなくて、存在そのものを否定しなきゃならなくなっていた、とか?

深読みし過ぎかもしれない。

けれど、あんなに必死になって、哀れなほど自分を主張していた理由としてなら、相応しい気もする。

自分が存在することを証明したくて、
苦しんでいたのかな?

自我が求めていたのは、自分という存在の証明。

相対的な価値観と比較による感情の刺激は、
それを証明するための手段。

目的は、存在を証明すること。

自分はここにいる。存在している。

自我の願いが、そこに集約されているなら、
どうしたらいい?

命として存在してる、では、不満なのだろう。

陰陽の世界は、光である命の形を知るために、
影が必要だった。

同じように、相対的な価値観は、
自分を知るために必要だった。

なら、もう知ったのではないかしら?

まだ、全貌ではないのかな。

いつか、命の全てを知ることができたら、
自我からも、相対的な世界からも
抜け出せるのだろうか?

知るは、思考だから、感じることができたら?

得るのではなく、削いでゆくって感じかな。

思い込みや観念や概念を、思い込みや観念や概念だと気づくことができるようになったら…

そんな願いすら、自我のなせる業なのかもしれない。なら、やめた。

今日のところは、自分が存在することを証明しなくてもいいってこと。

私たちは、みんな違って見えるけれど、個性的で私以外は自分が溢れた世界に感じるけれど、私と同じ人はいない独りぼっちの世界だと思うけれど、人間という着ぐるみを脱いだら、同じただの命だ。

現実を生きている限り、
いいことをすれば好かれるし、褒められる。
悪いことをすれば、罰せられる。

いいこと、悪いことは、
世の中のため、人のための基準。

自分の価値観には、合わなくて当たり前。

なので、自我が大きくなると、
この世は地獄になってしまう。

着ぐるみを脱がない限り、
自分を知りたいと思い続けるのかな。
生きているうちは、ずっと淋しいのかな。

自我が欲しているものに気づいても、
なにもしてあげられないんだな。

意識にしか存在しない自分という概念を、
3D化することはできないし、
自分が存在すらしないという淋しさを
癒すこともできない。

本当に、なんのための命なんだろう。

淋しさが情を育むとしても、知らない方が幸せだったんじゃないかな。自我としては。

なんか、ネガティブだ。
つまり、自我まみれってこと。

ふふ。相変わらず、主張が激しい。
うらやましいくらいに、元気じゃないか。

安心したまえ。

これだけ自己主張してくる君を、
消すことなんてできないから。

淋しいからって、存在証明なんかしないでいい。

存在しなくても、嫌でも意識しちゃうもの。

実態がなくても、思考は君を創り出す。

自我は、人である業みたいなもの。

命ある限り、切り離すことはできない。
なら、仲良くやろうよ。

現実を生きるためには、君の力が必要だから。

命をすり減らさない範囲内で、
張り切っておくれよ。

自我の淋しさを、
自分を知りたいと願う欲を、
満たせる命でありますように。

 fumori 


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