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母が亡くなってから、もれなく母と生きてきたのかもしれない。

今にして思えば、
母の死は、私の死だった。

母がいなくなることへの不安。
無理をさせた申し訳なさ。
手遅れになるほど放置した医師への怒り。
惜しまれる若さで死ぬことへの不憫さ。

涙を流す理由はいくらでもあった。
けれど、
あれほど心が乱れたのは、
死の恐怖だったように思う。

母の死によって、
生まれて初めて自分の死を自覚した。
無意識に。

母の死によって人生観が変わったのは、
私自身の死と直面したからだと思う。

なぜ、母の死が、
私自身の死だと感じたのだろう?

母の死とともに、母の中にいる私が死ぬから。

母とは気持ちが通じることが少なかったように思う。怒られてばかりでだったし、気持ちに共感してもらった覚えもあまりない。

ただ、表現は間違っているかもしれないけれど、母の死に自分の死を感じるほど癒着していたとしたら、案外、繋がりは深かったのかもしれない。

依存的な関係は良くないと言うけれど、繋がりが薄いと思っていた母との癒着は、ずっと甘えた子供のままでいられた部分があったということで、びっくりするほどほっとした。

母の死は、母に依存しきって、
安心していられた私自身の死でもあったのだな。

なら、逆に、私の中には、
母が取り残されていることになる?

自覚はないけれど、私の中には、
癒着した私と引き換えに
癒着した母がいるのかもしれない。

それが良いかどうかはわからない。

ただ、それが本当なら、母が死んでから、
私はずっと母と一緒だったことになる。

ずっと独りだと思っていたけれど、
独りになんてなれなかったのかもしれない。

そんなことって、あるのだろうか?

大切な人は、
心に棲みつくものなのだろうか?

母が亡くなってから、
もれなく母と生きてきた。

本当か嘘かわからないし、
自覚もないけれど、
そんなふとした思いつきが、
朝から私を幸福にしてくれた。

心潤う一日の始まり。

 fumori 


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