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この世界に安心するのは、難しい。

ずっと願ってきた自由に手が届きそうになった途端、あっけなく本能に負けてしまうことを知る。
ガッカリだ。

が、あくまでも現実での話。
求めていたのは、精神の自由だった。

精神にも、本能って影響するのだろうか?

肉体あっての精神なので、食べなきゃ死ぬってなったら、精神でも現実でも、自由なんてどうでもよくなりそう。もちろん、やっちまったら、人としてアウトだけれど。

さて、身内の話なのだけれど、亡くなる直前のうつらうつらした状態を見て、現実に存在しているのに、精神を生きている。そんな気がした。

眠っている間のことはわからないけれど、意識が精神の世界でも生きられるとしたら、死の逃避先なのかもしれない。日常の苦痛も。

なら、精神って、
死やそれ以外の恐怖からの避難場所?

行き場のない自我の逃避先?
自我に抗う本能かしら?
命の神性みたいなもの?

私の場合、
辻褄が合わなくなった自我の隠れ家っぽい。

構築した世界が破綻しそうになると、精神に逃げ込んで、再構築し始める。辻褄を合わせて、世界を理解した気持ちになる。気分がよくなる。
めでたく生きる気力がわいてくる。

結局、独りよがりな世界観を創って、
悦に入りたいだけなのかな?

知らないことが、怖いのかも。
この世界を恐れている、かな。

だから、知ることが楽しいのかも。知ることで、安心できるから。安心したくて、正解が欲しくなってしまうんだろう。

頼りたい。

こんな訳のわからない世界で、
どうやって生きていったらいいっていうの?

教えられたことは間違ってるし、よいとされていることは損をするし、悪いとされていることがまかり通っている。
人のためと言いながら、相当、勝手に生きている。人に教える立場の先生が、犯罪者だったり。あなたのためと言って、虐待したり。

理解不能の世界。狂気の現実。
これが、人間?
なら、人間って、いなくてもよくない?

少なくとも、適応できないなら、
私はいなくてもいいんじゃない?

「そんなことないよ。あなたは知らないだけ。この世界は、こうなっているから、こう考えれば、こう行動すれば、幸せに生きられますよ」

探しているのは、そんな甘言。
求めているのは、
安心して、この世界で生きられること。

なら、言葉の上では、簡単。

「安心して生きたい」は、生への執着、死の観念があるから、不安ってこと。

生きたいから、不安。
死ななきゃならないから、不安。

わざわざ、不安を作ってる。

生きることが不安なのも、
死ぬことが怖いのも、当たり前なのに。

安心できる生き方があると思ってるから、
今が不安になるんじゃない?

死から逃れる方法がどこかにある、
いつかはそんな薬が開発される、
とか期待してるの?

あり得ない期待を抱いているから、
不安になるんじゃない?

自分で作り出した不安に、
怯えているんじゃないの?

安心できる現実なんて、
存在しないんだよ。
たぶん。今のところ。

命はいつだって、危機だ。
一見、安全に見えるだけ。
怖いから、考えないだけ。

道路を歩いているだけで、
居眠り運転の車が突っ込んできたら?

いいお天気だけれど、あと数秒後に
富士山が噴火するかもしれないよ?

今日は生き延びることができても、
明日、天変地異が起こるかもしれない。
なら、家の中にいたって、危ない。

生きている限り、いつだって命は尽きる。
良いことをしたって、
長生きできるわけじゃない。

死の可能性を考え始めたら、
一瞬の奇跡的な今しかないってことになる。

はい。ここ。

自我が求めるハッピー感ではなく、本能を満たすことで得られる、苦しみからの開放感を幸せにすれば、日常に感謝しかなくなる。それと同じ。

当たり前の今こそ、
感謝すべき奇跡の瞬間だってね。

まあ、早々、思えないけれど。私は。

ネガティブな感情は、愛だ。

幸せに気づけないから、愛とは思えない。
それが、幸せだってことも。

健康で、食うに困らない生活を幸せに感じられないなら、幸福の設定が間違っているのかもしれない。

ないものを求めて、今ある幸せを、
不幸としてカウントしている。

こうやって言葉にしてみると、不幸の原因は「欲」なのだけれど、主観で考えていると、うまいこと自我がコーティングしているから、気づけない。

生きることは、不安です。
死ぬことは、怖いんです。

ただね、一つの価値観には、
必ず反対の価値観も付随している。

生きることは、安心です。
死ぬことは、怖くないんです。

そして、この価値観が欲しいなら、もう一方も引き受けないと得られないのですよね。なぜだか。

生きることに安心したかったら、
不安を知ることです。

生きる不安を知ることで、安心できますよ。
不安のない生き方を諦めることでしか、
求めるものは得られませんよ。

なんて言われても、安心できないし、
諦められるものではないんだけどさ。

第一、この考え方そのものが、
間違っている可能性は高い。
確証のない思い込みだから。

というわけで、
この世界に安心することは難しいのですよ。

なので、私には、現実に左右されないくらい圧倒的に自由な隠れ家が必要なのです。

精神が逃避先に最適なのは、なんでも自分勝手に創り出せる自由があるから。

もちろん、嫌な記憶を繰り返したりもするので、いいことばかりではないんだけど、そんな居心地の悪い世界でも居座っているのは、たぶん、映像の世界だから。

記憶にせよ、インスピレーションにせよ、映像だから、自由に解釈できるんだよね。それが、自我には楽しいのだと思う。現実に制限されずに、考えをどこまでも広げられるから。
自我にとっての自由は、そういうこと。

それが時々、自我が創り上げた認識の世界を、
飛び越えてしまう。

あれ?
もしかして、それが、精神の目的?

現実の厳しさに打ちのめされて、自我のプライドがズタズタになり、精神に逃避して、完敗した現実に通用する価値観を探し求めて、新しい世界観を構築して、現実にリベンジする。

嫌なことばかり思い出すのは、設定を変えるためかな。間違いを気づかせるために、そのシーンをリピートしてるだけなのかも。

心が傷ついていると、
自爆装置にしかならないけれど。

人間の機能には、ちゃんとした意味があるのかもしれない。狂っているとしか思えなくても、求めるものにはたどり着けるのかも。
それが、期待している答えとは限らないところが、悲しいけれど。

私の精神は、想定より自由なのかもしれない。

目の前の現実を、ありのままの状態として見れるようになれたらいいと思うけれど、そもそも精神は既にそういう状態だった。

自我が勝手に解説しているだけ。
なら、耳を塞げば、あるがままの状態になる。
ジャッジもラベリングもない、単なるビジョン。

言葉で認識しない世界は、既に存在する。
なんと私の精神に。

なら、現実にも存在させることはできるのだろう。いつか、きっと。

死ぬまでに、間に合えばいいね。

2021.11.24
fumori 

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