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全てを赦すことができたら、それが罪ではなかったと気づくだろう。

私は、執念深い。
認めたくはないけれど、我が強いし、思い込みも激しい。そんな勘違い人生をなんとかしたいと思って、根に持たないよう努力してきたつもりだ。

なのだが、その努力が間違っていたようだ。

例えば、腹が立ったとする。
感情が激しすぎて、思考が働かなくなる。

ムカつく。あいつ、おかしい。間違ってる。
なんで気づかないんだ。バカじゃない?

毒づくこと、マシンガンの如し。
もちろん、大人なので口になんか出さないし、なるべく顔にも出ないようにはしている。

本音と建前が、この世界のマナーだから。
この境界を踏み越えてしまうと、制裁を喰らうことになる。
それが嫌なので、私は我慢する。
溜まったもやもやは、ストレス解消と呼ぶ行為で発散すればいい。

先ず、これがヘタ。
発散できることもあるけれど、もっと気分が悪くなったりもする。
「自分は悪くないのに」という気持ちが強すぎて、許したつもりがぶり返してくる。

そんな利己的な感情に反抗されると、こんなことも許せない自分に怒りがわいてくる。

そして、遂に意思と感情の攻防が始まる。
自分による自分責めは、遠からず自滅ルートへ導かれる。なんとか回避しなくては…

そこで、相手がなにを言っても、許すことに決めた。大らかに、そんな考えもあるよね、って、大人のふりをして。

とは言え、そんな高度な感情処理能力はないので、演技でそれらしく振舞ってきた。
そりゃ、破綻するよね。

深入りすれば、許したくないことも許さなければならないし、それしきのことで腹を立てる自分の器の小ささを責めたりし出すので、人間関係性は極々薄くなる。

それでも平気だったのは、なりたい自分で生きられる充足感が強かったからだろう。

大人で器の大きい自分が好きだった。

けれど、どうしても許せない人が現れた。
そして、やっと気づくことができた。許す必要なんかなかったことに。

怒ってよかったのに。
一生、許さないままでもいい。

正直、そこまで恨むほど大したことをされたわけではないのだけれど、相手を許さなくていいという許可を自分に出すためには、一生恨み続けるような執念深い、器の小さい人間なのだと認めることでもあった。
大好きな器の大きな大人の自分を捨てなければならなかったから。

だから、許せなかったんだよね。

でも、それは「ゆるす」という解釈を履き違えていただけなのだと思う。

許せなくても、赦すことはできる。

許そうとしたから、相手の言い分を許可しなければならなくなって、認められない自分を責めることになった。

赦したかったのは、相手ではない。
罰したい自分。
認められない自分。
嫌いな自分。

認められないと思うなら、認めなくてもいい。
好きになれないなら、嫌いになってもいい。

そんな当たり前の感情を認められなかったから、恨んだり、執着したり、執念深くなったり、我を張って自分を守らなければならなかったのかもしれない。

なんて、自己保身の言い訳かな?

囚われてしまうのは、不安だからだと思う。
結局、不自由な方が、快適なのだ。
安心できるから、偏っていたいのだ。

それが、本音のくせに、認められないだけ。

そんな私を赦そう。
赦したかったのは、他人ではなく、そんな自分。

他人は関係ないのかもしれない。
そもそも感情に罪はないはずだから。

思い込みや価値観が偏っているだけ。
それを手放せないとしたら、不安だから。

自由や平等より、安心していたい。
そりゃ、そうだ。

なら、赦してしまえばいい。
偏ったままの自分に対してそれができたら、今よりは他人を気にせず生きられるかもしれない。

もしも、全てを赦すことができたら、それが罪でないことに気づくかもしれない。

そうなったら、素晴らしいね。

期待しよう。
人生に。未来に。この世界に。

世界に祝福されて、生きてゆこう。

 fumori 

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