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自己肯定感の低さは、社会から求められるニーズへの不適合が積み重なった結果だろうか。

居場所がない。

いつから感じていたのかわからないくらい、
心の奥底に根付いている。

だから、求められる自分になりたかった。
それがいつしか、理想の自分を演じることに
すり替わり、人生を拗らせた。

求められるのは、命であって、
私という自我ではない。

命は、今。
今を積み重ねた時間。

問われていたのは、命の使い道。
なんのために、どう使うの?
それだけだったのにね。

この世界に、私のニーズはない。

だからこそ、求められる自分になるたりたくて、
人よりも劣っている能力を補おうとしてきた。
そのために、命を割いてきた。

その結果が、今。
そして、無駄な努力というものを
思い知っているところ。

成長とは、
出来ないことが出来るようになること。
人より劣っているところを、補うこと。

私の世界観には、やればできるどころか、
やって当然の前提があった。

それが、不得手であっても関係なく、
クオリティ高くやることを求められてきた。
人であるためには、できて当然のこととして。

一体、なんのためだったんだろう?
どうして、自分以外にならなければ
ならなかったんだろう?

一つは、子供っぽい自信過剰。
残りは、多分、当時の社会のニーズ。

80点の人に、120点を求める社会。
その80点が、必死に頑張った結果だとしても、
成長と称して、100点以上を求められる。

100点なんか、いらなくない?
物事8割わかってれば、
大抵のことは考えれば補えるでしょう?

不確定な現実を生きるために必要なのって、
回答じゃなくて、予測する力でしょう?

それを、120点って…
100点中の20点と、
100点超えの20点は、
同じじゃないって、わかってる?

大体、その20点って、誰のためのもの?

私にとって、みんなと同じことは、
ハードルが高かった。

人並みにできるつもりでいたけれど、
全然、人並み以下だった。

賢くなりたかった時点で、
賢くないって事実は、わかっていたんだろうに…
無意識では。

過剰気味の自信を失って、
リアルな自分に触れたら、
洗脳教育としか思えなかった
学びの本質も見えてきた。

世のため、人のため、
現実を、未来を築いていくためには、
我を張ってはいけない。

真っ当ですね。

目的は、今の私が求める未来と同じ。
なら、私が取り違えてしまったのかな?

自我と人間の本質。
そんな違いがわかるはずもないもの。

その取り違いが、心を蝕んで、人生をダメにするなんて、健全な人々は気づかないのだろう。
嫌味っぽい?
そりゃ、人並み以下なんだもの。
卑屈にくらいなさせてよ。

同じ教育や躾を受けて、
同じ時代を生きても、
真っ当に生きられる人々が殆どだ。

私は、当時のシステムに適合出来なかった。

自己肯定感の低さって、
社会からのニーズに対する
不適合の積み重ねなのかな?

みんなができることが出来ない。

それは、劣っているわけではなく、
才能の違いに過ぎないのに。

今できることが、その人の才能。
好きだから出来ること。
嫌でも、やればできること。

出来るなら、その全てが才能。

大袈裟に言えば、
ご飯を食べることも、
トイレに行くことも、
息をすることだって才能があればこそ。

人間は、才能の塊なんだよね。

命を繋ぐという意味では、
自力で食べられれば十分なのに、
マナーがどうの、食べ方がどうの、
体に良い食べものは…
なんて後付けされた情報の方が、
重要視されてしまう。

できなくてもやりたい。
と、心が動くなら、才能の芽はある。

人並みにできるようになりたいとか、
できない自分は劣っているとか、
不足を補おうとする発想からしたことは、
命という時間の無駄遣いになってしまった。

ここまで無駄にして、やっと気づいた。

多様性の時代に、なにをやっていたのやら。
もう、昭和じゃないんだから、
縛られなくてもいいのにね。

誰かのために、自分を犠牲にするのではなく、
自由に生きることが、
世のため、人のためになる。

そんな時代がいい。
そんな世界で生きて行きたい。

自我の自由ではなく、本質の自由。
個人の利益より、世界全体の豊かさ。
欲しいものより、与えられるもの。

もちろん、
お金持ちにはなりたい。
貧乏は二度と嫌だ。

ただ、
そこのラインではない価値観で生きてみたい。

ない才能を手に入れるために命を使うのではなく、当たり前にできることをやる。

好きなことだけでなく、嫌なことだって、
やればできるなら、才能。
好き嫌いは、ジャッジに過ぎない。

面倒でも、苦手でも、
できることに命を使う。

やりたいことがなくなってしまったのなら、
大した才能じゃないけれど、
あるものを使うしかない。

得意なことで、好きなことから、
才能を伸ばすことが出来る人は、運がいい。

今の私にある才能は、
どれもあんまり好きじゃないし、
才能と呼べるほど質の高いものではない。

この程度の才能だけで生きてゆくことなんて、
できるとは思えない。

それでも、ない才能を求めて、
命を無駄にするのはやめようと思う。

できることだけをしてゆく。
どのみち、それしか出来ないんだもの。

もしも、私の中に豊かな才能があるとすれば、
きっとやりたくないことの中に
溢れているのだろう。

やりたいことの中からは、
見つからなかったから。

やればできる。それが、才能。
やればできるくせに、出来ないと言うのは、
やりたくないという自我のせい。

人は、誰でも才能に溢れている。

誰かと同じことをするのではなく、
できることをしていればいい。

命を生きるということは、
それだけのことなのかもしれない。

 fumori 

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