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人は、愛しか表現できないのかもしれない。

信じがたいことに、
そんなアイデアに行き着いてしまった。

昨日、二回データが飛んだので、
飛躍しているかもしれないのだけれど、
ネガティブな感情の根源は、
淋しさだと思うようになった。

淋しいから、愛されたい、
大切にされたいと願うようになる。

私のことが世界で一番大切だと宣うエゴの登場。

エゴと共存することで、
大切にされて当然な私として
生きられるようになる。

淋しさを感じなくてもすむ。

けれど、
大切にされて当然なのに、
現実の私は大切にされない。
大切にされたとは思えない。

なぜ?
理不尽だ。現実は不当だ。
こんな世の中間違っている。

ネガティブ爆発
怒り。悲しみ。憎しみ。恨み。僻み。

淋しさの代わりに、
ネガティブな感情に苦しむようになる。


私の感情のフローは、
そんな手順だった気がする。

淋しさを、エゴに救われた。
そんな心の救世主であるエゴと共存したら、
淋しさ以外の感情で苦しむことになった。

淋しさが、苦しみか。
結局のところ、
どちらかは味合わなければならない。

苦しみから逃れたいのなら、
淋しさとともに生きるしかない。

人は、淋しい生き物。
人生は、苦しみ。

そんな人生観は真っ平だったけれど、
受け入れることで落ち着けるなら、
それでもいいかと思っている。

抗うほどの気力は、もうないや。

そもそも、
淋しさに理由なんかないのではなかろうか?

誰もが最初から抱えている
感情の一つだとしたら?

幸せを失ったから、独りだから、
淋しいと思っていたけれど、
何も失っていなかったはずの
幼い私が感じていたのだから、
単なる感情のサイクルなのかもしれない。

世は無情なので。
同じ状況と思っても、感じ方は変わる。

淋しはは、もともとあるもの。
あるのなら、愛の一つ。

淋しさも、愛には不可欠な条件らしい。

苦しみは、エゴが生み出している。

淋しいから、大切にされたいという
素朴な願いは、人を大切にできる心を生む。
なら、淋しさは愛だ。

が、人は皆、大切にされて然るべきとか、
なら当然、私も大切にされなければならない、
みたいな痛い思い込みに育ってゆくと、
現実は期待を裏切り続けることになる。

理想と現実のギャップが、苦しみの一つ。

どんな理想を掲げようが、
現実以上にリアルなものはないのに、
ネガティブな感情が渦巻いて、
被害者になってしまうと、見境がなくなる。
理不尽なのは自分の方がだとは思えなくなる。

そうやって、人の道から外れた私は、
業火に焼かれていた。

私ではなく、命が身代わりとして
燃やされていた。
自分の罪を肩代わりさせた良心の痛み。
これが、二つめの苦しみ。

火炙りにされるのは、私の方なのに。
これまで犯した罪とともに、
燃やされ続けなければならない。

炎が消えたら、エゴが出てきてしまうから。
命と入れ替わって、私ごとエゴを燃やす。
命として生きるために。

どちらかしか、選べない。
淋しさか、苦しみか。
命として生きるか、
エゴと共存してゆくか。

どちらかが正しいとか、メリットがあるとか、
そういうことではないのだな。

命としては、どっちでもいいのかもしれない。
尽きるまで、感情豊かに生きてくれたら、
それだけで満足な気もする。

どちらを選ぶか。
私の好きでいいんだ。
どうやって生きていきたいか?

長生きしたいなら、健康的に、
お金持ちになりたいなら、働いて節約する。
働きたくないなら、それでもいい。
あとで苦労するのも、一興とか思ってるのかも?

命からしたら、
病気になろうが、
貧乏だろうが、
怠惰だろうが、
好きにしたらいい。

命としては生きることは、
そのくらい自由なことなのだろう。
人間には理解できない価値観に命はある。

私にとっては感じたくもない
淋しさや、苦しみに対しても、
ネガティブな偏見はないのだろう。

淋しさは、愛。
苦しみは、エゴを焼く業火。

あるものを、ないとしない。
ないものを、あるとしない。

どれだけ醜くても、よくないとされる考え方でも、自分の中にあるのなら、どれも愛から派生したものなのではないかしら?

もちろん、証明しようなんて思わないけれど。

愛は証明できるものではないし、
たぶん、言葉では伝わらない。
派生した象は、人それぞれだから。

社会の価値観からしたら、
間違いとされていても、
私の中に存在するのなら、
それは、愛のひとつ。

愛は共通でも、その象は別。
自分の中にある愛は、自分だけのもの。

エゴやトラウマや、罪悪感で
歪に変形していても、納得できなくても、
これが私の愛だと知ること。

いい悪いじゃなく、
あるのなら愛だと認める。

心が望んでいることは、
淋しさが伝えたかったことは、
苦しみから見出させようとしたことは、
結局、ぜんぶ愛ってことだったのかな?

感情のすべてが愛なら、
人が表現するすべても、
愛ってことなのかな。

怒りも、悲しみも、憎しみも、恨みも、僻みも、
愛が拗ねた表現なのかな。

愛って、そんなに面倒くさいもの?
あ。私だから、拗れてるだけか。

さて、そんな拗らせた愛をどう使うのか?
問われているのは、そこなのかも。

私の中には、
ポジティブな愛もあれば、
はた迷惑なネガティブな愛もある。

さて、どの愛を使って生きて行こうか。
ぜんぶの愛を使い切って、生きられるかな。

 fumori 







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