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選べる限り、未来の感情を優先してみる。

人生の目的は、それぞれだ。

ないからといって困るようなものでもないし、下手に掲げてしまうと、不自由な人生になってしまう。理想も同じ。共に自由を縛る。

よりよい自分でいたいと願えば、現実は生きにくくなる。願望は、現実の自分に対する不満。不足を補えば成長するけれど、自分に満足することはない。感情的には、永遠なる苦行モード。それが、自己否定の生きる道。

感情を犠牲にしても、理想の自分でいたい。誰かに承認してもらわなければ、存在する価値がない、とかね。

今でも、自己肯定感は低いし、存在する価値も意味もあるとは思えないけれど、案外それが本質なのかもしれないとも思う。答えはあるのかもしれないけれど、個人に正解が委ねられている類の問いだから。なんでもありな世界なら、信じると言い切ってしまえばいい。

どんな人間であっても存在していていいのなら、理想なんかのためにわざわざ苦行を選ぶ必要もない。なりたい自分になるために感情を犠牲にしてきたのなら、それをやめるだけで生きやすくなりそうじゃないか。


価値観も現実も、感情を生成するためのスケール。

そんな見方からすると、感情こそ生きる目的みたいに思えてくる。なので、選べる限り、結果より感情で選んでみたらどうだろう。現実にもたらされる結果より、どういう感情が得られるか。どっちの気分を選ぶのか。

私にはその時々に「なりたい自分」がいたけれど、現実的な項目の裏にある動機は、承認されること、楽なこと、得なこと、だったように思う。

認められて、安心したい。楽をして、得をして、ラッキーな気分になりたい。

安定の俗人っぷり。中身が空っぽ。こんなにシンプルなのに、なんで現実が生きにくくなるのか不思議でならないけれど、私にとって現実は、対応しきれないほど複雑なものなのでしょう。

教えてもらったり、自ら学んだ知識が、私の身に余るんだろうな。情報として頭の中にあるけれど、全部を守ろうとして破綻して投げやりになる。正直に言えば、守りたくないってのが本音なのだろうな。面倒くさいとか。胡散臭いとか。

もしかしたら、そんな自分への不満が自己否定に繋がるのかもしれない。生き方に対する不満。こんな人生、ごめん被るという意思。

それもそうか。ラッキーな気分で安らかに生きていたいのに、やりたくもないことばっか選んで、辛い気持ちしか味わえないんだからね。

自分を認めてもらう必要のない私は、どんな感情を得たいのだろう。


やるか、やらないか。
やりたいか、やりたくないか。

やりたいことをやって、成功したら嬉しい。失敗したら、ガッカリする。結果はわからない。けれど、やりたいのにやらなかったら、モヤモヤするだろう。

やる理由、やめる理由を探すのではなく、「ガッカリの可能性のある嬉しい」か、「モヤモヤ」のどちらを感じたいのか。迷ったら、そう考えてみよう。少しは勇気が出るかしら。


やりたくないけど、やったほうがいい場合。世間体とか、社内ルールとか、メリットがあるとか。

やってスッキリする? 
やらずにモヤモヤする? 

やれば得した気分(ウキウキ)? 
やらないと損した気分(ガッカリ)?

やらないと現実的に困る?

現実的に困るなら、やる。本音優先で手遅れになったら、今やるより何倍もしんどいことになる。実害がある場合は、現実優先で。

さして困らないなら、今やる面倒くささとやったとのスッキリ感、やらずに気が重いままでいるかを選ぶ。

選んだ時点の気持ちではなく、選んだ後にもたらされるであろう気分を選ぶ。今の本音より、未来に得られる感情。

やりたいけど、やらない方がいい場合。やることのデメリット、やらないメリットを考える。それは、現実的な問題か、気持ち的なものか。

お金や時間の場合、現実的な解決策が必要になる。気持ち的な問題なら、未来の感情で選ぶ。

選択の基準が、クリアになってきた気がする。


現実優先か、未来の感情か、
本音か、現実的な解決策か。

これまでは、未来の感情という選択基準はなかった。

現実的な解決策に対して、なにかと本音が反発する。現実的なメリットがあっても、本音の威力が強かった。

けれど、感情に対して、本音は物分かりがいいような気がする。未確定の未来の感情であっても、気持ちが引っ張られるというか。

理屈は、本音の敵ではない。現実的なメリットがあれば引き下がるふりをするけれど、不満を増幅し、復讐の機会を狙っている。意思決定の頂点は、本音だ。現実的な責任は取らないくせに。

そんな暴君である本音も、感情に対しては、仲間意識があるみたい。

理屈の先にある未来の感情で選ぶ人生って、どうなんだろう。

今より気楽で生きやすいといいな。

 fumori 






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