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なにもない今日に潜む贅沢。

もしも、
今の自分が相応しいと思っていることが、
未来になるのだとしたら…

現実は、過去からのギフトだ。

いいことがあったら、過去に感謝し、
嫌なことがあったら、過去を労う。

なら、過去が記憶されるのは、不確定の未来を選択をするためのデータだろうか?

仮に、過去が未来予測のためのデータの蓄積に過ぎないのなら、過去を悔やんだり、恨んだり、羨んだりするのって、時間の無駄でしかない気がする。

有限の命にとって、時間は貴重だ。
無駄に過ごしていたら、もったいない。

なら、今日はどんな一日?
過去からのギフトは、なに?

特に、やるべきことはなく、
誰からも求められることもない。

せっかくの休日なのに…

淋しい。孤独。
生きていていいのか不安になる。
存在価値があるとは思えない。

なんて日だ!

これが、今日のために用意された
ギフトなのだろうか?

過去の私が、
相応しいと思っていた未来なのだろうか?

私には、淋しくて、孤独で、
存在理由すらない未来が妥当だと??

そんなはずがない。
私は未来を信頼している。
信頼すると決めたのは、
過去の自分自身ではないか。

なにかが、間違っている。見逃している。

こういう時は、目に付きやすいネガティブな側面ではなく、対極を探してみよう。

なにもない一日を言い換えると、
健康で、食うに困らず、
やらなければならないことがない
ということ。

やりたいことをやろうと思えばできる。
美味しいものを食べたいと思えば食べられる。
やりたくないことをやらなくてもいい。

なにもせずゴロゴロ過ごしていてもいい。

無駄の極みだけれど、選択の自由度は高い。
孤独なほどに、自由が増す。

淋しさを埋めようとすれば、
制約されるしかなくなるから?

今の私にとって、
誰かといるということは、
自分自身でいられなくなるということ。

他者を優先することは、自分を虐げること。

だから、淋しい自由を選んだのかな?
自分を偽らずにいたいと願ったのかも。

淋しさと自由。
それが、今日与えられた一つ目のギフト。

二つ目は、多分、豊かさ。

無論、懐は寂しい限りなのだけれど、
無駄な時間を選べるほどの自由は、
とても贅沢なことだ。

限りある命にとって、
無駄な時間は、最大の贅沢になり得る。

だとしたら、
失敗したり、過去を悔やんだり、未来に怯えたり、人生になくてもいいとしか思えないほど実のない無駄な時間こそが贅沢、ということになる。

なら、失敗と後悔と無駄ばかりの私の人生は、贅沢な極み、なのだろうか。

屁理屈ですね。
けれど、淋しく過ごすよりは、朝から贅沢な気分でいられる方がいい。

どちらにせよ、実のない一日なのだから。

私の人生は、贅沢の極み。

与えられたギフトは、自由で贅沢な一日。

なにもない今日に潜む贅沢を楽しんでみよう。

 fumori 


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