見出し画像

死ぬのが怖いのは、一度しか死ぬことができないからかもしれない。

命を使えなかったら、
生きることなんか意味不明だ。

死がチラつく未来と向き合えず、
過去だけを抱え、命を惜しんで、
生きながらえてきた。
これまで、ずっと。

そんな人生を変えたくて、
過去は前世くらいに思って、
前を向くことにした。

毎晩、死んで、毎朝、生まれ変わる。

そんなアーティスティックな生き方をしてみようと思ったら、死霊化した過去に出逢ってしまった。

具体的には、何があったかもう忘れているのだけれど、弔えないまま無自覚に抱えていた過去の重みというか…

忘れているくらいなら、きっと一つ一つは大したことではないはずなのに、積もり積もった未消化の過去は、アトラスが苦悶の表情で担いでいる地球ほどの負荷になっていた。

過去への執着は、生への執着。
まだまだ、死ぬために生きられない。
振り切れていないのだろう。

まあね。死にたくはないもの。

死にたくはないのに、
命を使わないと生きられない。

人って、因果な生き物だ。

生きようとすれば、
命を使って、死んでゆくしかない。

ただ、死ねば、生まれることもできる。

死んでみなければ、
生まれ変わることはできない。

輪廻転成とかの話ではない。
むしろ、私は来世なんて望んでいないのだけれど、死の恐怖を和らげるだめには、小刻みに死んでいったほうがいいと思っただけ。

命を使って、死んでゆく。
それが、生きることだとしても、
やっぱりポジティブに死のう、なんて思えない。

死はまだ遠いけれど、前を向くたび、
チラチラ目に入る。気が滅入る。

いくら私の命が潤沢だとしても、
いつかは死んでしまうというのは、哀しい。
そして、怖い。死ぬことが。

死の恐怖は、薄れることはあっても、
ずっと怖いままだろう。
だって、死ぬのは初めてだもの。
なんだって未知なことは怖い。

なら、経験してしまえばいい。

私が怯える死の恐怖の中には、経験したことのない恐怖があるわけで、経験してしまえば、少しは恐怖が和らぐのかもしれない。

だから、小刻みに死んでみることにした。
毎晩、死んで、毎朝、生まれ変わる。

そういうことにしたら、
一日だけ死ねば済む。

一生分を一度の死で終わらせようとするから、死の存在は大きくなるし、さらに初体験だから恐怖も増す。

一日で死んでしまうということは、
何度も死ねるということ。
少しは死ぬことに慣れるかもしれない。

そして、死んだら翌朝、生まれ変わっている。
とすると、死ぬたびに過去をと弔うことになる。
今日やらかしたことを悔やむのは、今日だけ。
明日は、真っさらな自分で一日だけ生きる。
そして、一日を弔って、死んで、安らかに眠る。

一生は、一日にとても似ている。

最期は、安らかに眠るだけ。
自分では許せない全ての過去を許されて、
やり残したことを悔やむこともなく、
ただ眠ることができるのだと思う。
そう願っている、かな。

私のゴールは定まった。
安らかな死にしよう。
全てを許され、眠りにつく。

そんな大往生のために、
毎晩、死ぬための予行練習をしよう。

今日の罪を許され、穢れを清め、
毎晩、安らかに死んでみよう。

翌朝、目が覚めたら、
今日も生きてもいいよ、というサイン。

過去の私が、今日生きることを願ったから、
生かされているのかもしれない。
過去の自分に感謝してみる?
神さまとか、仏さまとか、ご先祖さまとか?

とりあえず、今日の命は与えられた。
余命は一日。
命は有限だけれど、生きている限りは無限だ。
使い果たせないほど潤沢な命を贅沢に使って、
一日の命を終える。

ある意味、都合よく生きてしまいそうで、ちょっと怖いけれど、甘えずに、潔く生きてみよう。

潔く死んでゆこう、かな。

うん。潔く死のう。

なんか、武士っぽいね。
これが、武士道だったりするのかな?

五輪書とか読んでみたら、
通じるものがあったりして?

 fumori 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?