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満足感の主語が、感情じゃなくて理性だったなんてね。

このところ、日々意識が変わってゆく。
喜ばしい限りなのだけれど、記録が追いつかなくて、歯がゆい。

順番が前後するかもしれないので、思いついた日付を入れておくことにする。

2021.6.25

死にたい、と言われた。
朝のまどろみで、いつもより激しく。

これが、感情の本音であり、ジャッジや不要な価値観からの解放を求める抗議だと思えるようになった。

…つもりだった。
思い出せる限りのブロックは外した。
記憶がないものについては、もう全部赦すことにした。赦されるように願った、かな。

それなのに、まだ死にたがる彼女の隣に座って、共感してみたんだけどさ、何を言っても反発ばかりで、もうイライラしてきちゃってさ、最後には怒りが爆発しちゃったのでした。

もういい。どっちでもいいよ。
そもそも命は私のものじゃないって言ってるじゃん。死ぬも生きるも命に委ねてるから、私が選べるものじゃなくなったでしょ。
死にたいとか言われてもさ、私は生きたいから生きてるわけじゃなくて、ただ生かされてるだけなの。死にたいと思うことは自由だけれど、あんたは精神なんだから、死ぬことくらい簡単でしょうに。死にたきゃ、お帰り。

ふざけんな。
コントロールしようとしてんのは、そっちだろうが。何様のつもりだ?

怒鳴り返されて、はたと気づいた。
私の怒りが、彼女が感じていた気持ちだと。
その瞬間、感情とリンクした。

悲しいのに、ダメ出しばかりするし、やっと気づいて尊重すると約束したくせに、勘違いな解釈ばかりしている思考に対して、猛烈に腹が立った。

ふざけんな。暴君は私じゃない。
あんただよ、理性のゲス野郎。

縛りは解いた、だと?
相変わらずガッチガチじゃねーか。
感じるってのは、あんたが考えてるようなもんじゃない。怖がってるフリして、私のせいにしてんじゃねーぞ。

全部、あんたが作り出した世界だろうが。
私は敵じゃない。あんたが反逆罪。
私が、主人だろうが。

生きている限り、制約をなくすことは無理だけれど、死ぬことさえ赦せたのだから、あとは大したことではない。なんて甘かった。

最大の縛りは、よくあろうとすることだった。

無理はしていないつもりだし、させるつもりもなかったけれど、よりよく生きようなんて思いが、諦めや後悔を生み、感情を縛っていたらしい。
死にたくなるほど。
理性を恨むほどに。

ポジティブシンキングや、引き寄せが、私には逆に作用してしまうということ。予祝とかね。

いい一日をありがとうございます。

朝日に向かって、今日の命に感謝する。
ステキな習慣ですよね。

けれど、いいもジャッジじゃない?
お祈りしておいて、最悪な一日だったとしたら、どんな気分?

ふざけんな、ですよ。そりゃ。

祈るたびに、
そんなキレイゴトじゃなくてさ、
本音を言えよ。本音をさ。
昨日のどこがいい一日だったって?
クソみたいだったじゃん。
と、思っていたのかもしれない。

けれど、思考は感謝の祈りに心酔しているから、いいことしてる感で満足なんだよね。

つまり、満足感はある。十分に得られる。
当然、満足してるのなら、心だって満たされていると思うじゃない?

満足感の主語が、感情じゃなくて理性だったなんて、微塵も思わなかった。

思考の達成感は、ホルモンの影響かな?
身体的な快感に繋がっているし、気持ちがいいわけですよ。

でも、心が気持ちいいわけではない。
衝撃なんですけれど…


満足感とか、気持ちの良さとかは、心や感情でなくてもも感じることができてしまう。
感じていると錯覚してしまう。

だから、心がなくても、生きてくることができたわけです。

理性と感覚だけで、満足できるし、気持ちもよくなれてしまうのです。

私がこれまで感じていたことは、全て心からの想いだと信じていたけれど、その殆どが思考や理性や感覚だった。

身体由来の満足感を得られる前向きなワードが、私の感情を縛りつけ、支配してきたこと。

死にたいと呟き、ふざけんなと怒り狂いたくなるほど、不自由だったこと。

達成感がもたらす満足感や気持ち良さを、感情だと思わせて、私を騙してきた。

それに気づかせないように、達成感を得ることを推奨して、頑張らせ、承認欲求中毒にした。

頑張らなないと、誰かに認めてもらわないと生きてゆく意味がなかったのは、身体的な快感と満足で、機能不全の心の代わりをさせようとしてきたから?

私史上、最大の自己欺瞞。

なるほど。
理性の満足感を心のものだと勘違いしていたから、おかしな人生になっていたんだ。

心というシステムを、思考が構築しようと試みていたと言うことかな?

マトリックスの世界観そのものだな。
思考にとって、感情はアノマリー?

メロビンジアンの因果関係の話は、わかるようでわからないのだけれど、今、私が触れているのはそこなのかもしれない。

ブルースリーの名言とか。

ジャッジがあるから、反応が生まれる。

ただ感じるためには、素の感情で現実と向き合うためには、極力ジャッジがない状態が望ましい。
思い込みは、感情を偏らせる。

特に、正しさや、善なるものや、守りたいものによって、感情は簡単に暴走するし、闇に堕ちる。

善であろうとすることで、悪に染まってしまう。善であろうとすることも、欲だから。

前も悪もないポジションに立って、現実と向き合い、生まれる感情を味わう。人間の本質的な働きは、こんなものなのかもしれない。

そんなポジションに立てるとしたらもはや人ではないと思うのだけれど…

私以外の多くの人々は、そこから世界を眺めているのだろうか?

それとも、自分の偏りから生じる情動を楽しんでいるのだろうか?

 fumori 




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