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敵ではないけれど、味方でもない自我という天才と共に生きるには、どうしたらいいのだろう?

今、出来ることの全てが才能。

そう思えるようになって、気づいた。

やりたいことが見つからないのは、
好きなことの中に、出来ることがないから。

得意な才能を伸ばせばいいのに、
ない才能ばかりを求めてきた。
自分の中の欠落を埋めるために。

それはそうなのだけれど、
たぶん、別の理由もあったと思う。

ある才能を使うだけなんて、退屈だから。

息をするのだって、
なにかを手にするのも、
目にするのも、嗅ぐのも、聞くのも、
当たり前のことだけど、才能だった。

人間は、才能の塊。
命は、かな。

けれど、当たり前にできることだけで、
なにかを成し遂げようとは思わない。

出来ることは、当たり前だから。
出来たとしても、
達成感や感動は得られない。

だからこそ、自分にはない才能を羨んで、
身につけようとしてきた。

今にはないものを、手に入れたいと願う。

これが、私という自我の本質。

皿洗いするより、掃除をするより、
作ったことのない料理を作りたい。

やったことのないことを、やってみたい。
できないことを、できるようになりたい。
知らないことを、知りたい。

現実が辛いから、空想する能力が高まった。
夢想するだけなら、逃避。
けれど、人は夢想を実現したりする。

幼い頃に、こうなったらいい
と、思った社会になった。
不便は、便利さに駆逐されてゆく。

人類や世界の進歩は、現状に対する不満なり、
不満足なりで成り立っている。

いつだって、今の世界は完璧ではない。

過去と比較すれば、どれだけ便利で、平和で、素晴らしい世界であっても、満足しない。

現実は、常に満たされず、
世界は、常に進歩し続ける。

発展のためには、常に今が犠牲になる。


なら、
現実が辛いと感じるのは、当然のこと。
できることがつまらないのも、当然。

つまらなくても、面倒でも、
掃除をすれば、スッキリする。
しなければ、気持ちがどんどん重くなる。

どっちを選ぶか?
現実が問うのは、そういうこと。

私がそれを好きか嫌いかは、関係ない。

やればできることを、やるかどうか?
ある才能を、使うかどうか?

嫌でも、使えるし、
嫌だから、使わないことも選べる。

現実が私の思う通りに進まないのは、
才能を求められているからなのかもしれない。

好き嫌いは別にして、
やると決めれば、できることだから。

迷いなくやることを選べたら、
生きることはものすごくシンプルだ。

なかなかできないのは、自我のせい。

そんな自我が憎かった。
いつだって生き方を邪魔するのは、自我だった。

けれど、自我は、敵ではない。

もちろん、味方でもないのだけれど、命の使い道を誰よりも知っているのは、たぶん、自我。

私たちの肉体は、この世に同じものはない。
完全なるオリジナル。
身体に付随する感覚も、機能も、資質も、脳の癖も、受けてきた教育の受け取り方も、全て。

そんな肉体と経験によって作られてきた自我は、簡単に私を乗っ取ることができる。

つまり、機能や、思考の癖や、感動するポイントや、こうすれば私はこう考え、こう結論を出すだろうということを、誰よりも知っている存在ということ。

命という才能を使いこなす術を知る者。
好き嫌いに惑わされなければ、
命を余すことなく使い切るだろう。

肉体に宿り、肉体とともに滅ぶ自我に、
存在意義があるとしたら、
そういうことなんだと思う。

自我さえなくなれば、楽に生きられるとしても、
なくすことはできない。
他者が存在する限り、自我も存在するから。

なら、自我が一番求めている存在意義を与えてみたら?

味方にはならない。使役もできない。
自我は、意識の上では、命よりも上位にある。

だからこそ、命を使うことができる。
誰よりも上手に活用するだろう。

私に関する限り、自我は天才なのだ。
自我こそが、オリジナルな才能。
人としてではなく、
私個人としての才能そのもの。


人に共通する命は、
個別の肉体を与えられ、
オリジナルな自我が宿り、
個別の才能を生み出している。

価値観によるジャッジや、
自我の思惑を超え、その才能を生かすこと。

生きるということは、
生かされているということは、
その才能を求められているのがしれない。

私がやりたいこととは限らない。
現実が求めているのは、
やりたくて、できないことより、
今の私でも、できること。

つまらない現実を突きつけられたら、
好き嫌いではなく、できることを数えてみる。
現実が求めていることを、見つけてみる。

嫌な記憶には、嫌ではない感情がある。必ず。

同じように、やりたくなくても、
求められたり、できちゃうことはある。

やれる限りをしたら、きっと感謝しかなくなる。

最後に滅んで行く肉体と、ともに消えてしまう自我には、物も思想も託せない。
過去の経験も、幻想に過ぎない。

なら、最期に残せるのは、感情だけ。

死の恐怖に怯えているのかもしれない。
後悔に苛まれているのかもしれない。
痛みに悶えているかもしれないし、
悲劇に酔いまくっているかもしれない。

できることなら、感謝を。
二度と会うことはできず、
もう生きることも許されない肉体と自我に。

私の体と自我に、どれだけの能力があったのか。
それを証明することはできないけれど、現実の求めに応えることが、命を活かすことになる。

ハッピーエンディングな人生って、
そういうことじゃないかな。

命という才能を共に生きられたらことに、
あらん限りの愛と感謝を。

命を惜しまず使うこと。
好き嫌いより、命の才能を優先する。
できないことより、できること。
未来より、今。

そんな今を突き詰めた先に、
未来は作られてゆく。

望む未来ではなくても、
ハッピーエンディングな最期が迎えられるなら、
それに勝る未来はない。

ハッピーエンディングまで、
自我という天才と共にある人生、か。

トラブルの予感しかしない。
その分、退屈はしないかも。

俄然、未来が楽しみになってきた。

 fumori 



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