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その瞬間の関係性が私にとっての生きる目的になるかもしれない。

ありのままの自分ではなく、
あるがままの現実を生きよう。

そう決めたのは、七月七日。
星に願った訳ではないけれど、
案外、早く叶うかもしれない。

ありのままの自分は、確かに個性だけれど、聖人でとない限り、俗な欲にまみれている。
なので、現実とは敵対してしまう。

その両者をなんとか融合できないものか。
私が変わりさえすれば、平和的解決が見いだせるかもしれない。

…なんてもがいてきたけれど、ここだ。

これが、道理だ。
無理は通らない。
ここが限界。

ずっと求めていた境界線。
わがままと自由の、ちょうど真ん中に、今、私は立っているのだと思う。

だから、ありのままの自分で現実を生きることは諦め、あるがままの現実を生きようと思った。

思ったら、決まっていた。
ここは、ポイントかもしれない。
無理なく、迷いなく。
信じることができたのかな。

とは言え、私にとって現実は、理不尽で、不平等で、好ましいものではない。
そのまんま受け入れてたら、私が潰れる。

なんて思っていたけれど、それは、私が求める価値観を現実に期待していたから。

理解したい。笑っていてほしい。貢献したい。

なんて、耳障りのいい言葉で自分すら騙してきたけれど、引き換えとして同じものを与えるよう求めていた。

理解してほしい。楽しい人と思ってもらいたい。
仕事ができたら、認めてもらえるさ。

承認欲求ですね。
私にとって現実は、そんな我欲を満たすためのステージだった。
けれど、当然、現実は私のものではない。
頭ではわかっていて、悩んでいたのは、不可能を可能にしたかったから。

私=側実

この公式を捨てるわけにはいかなかった。
辛い現実が、キッパリと線引きしてきたのに、認めようとしなかった。

もっと領土をひろげたかった。
自分はこんなものじゃない。
なんとかなる。

自己評価の高さが、現実を拒絶してきた。
認めたら、バレるから。
弱くて、何者でもなく、
ただ寂しいだけの自分であることが。

現実と自分との間に線引きをするということは、孤独に耐えられる強さが必要だから。
そして、孤独を引き受けることで、
それは、自由に変わる。

境界という制限を受け入れることで、求めていた自由を得ることができる。

不自由だったのは、孤独を恐れ、自分と現実を融合しようとしていたから。

言葉を理解することは簡単なのに、
納得するのはなんでこんなに難しいのだろう。


自分=現実=自己否定=孤独
これが、ネガティブな私のデフォルト。

自分=現実<自己理解>
自分≠現実<境界線=自由>

自由な精神で、
あるがままの現実を生きる。

それは、いいとして、どうやって?

そもそも、私にとって現実ってなんだろう?

私ではないもの。
他者。社会。システム。知識。時代…
歴史によって築かれてきたもの、かな。

知らないことを与える存在。表明している?
私もまた、そこへ向けて、自己を表現している。

現実って、ものではないのかな?
与え合う、表明し合う関係性そのもの?

私にとって、現実を生きるということは、
目の前に起こること、与えられることと、どういう関係を築いてゆくか、なのかもしれない。

何をしても自由だけれど、
何をするかが目的ではなく、
目の前に起きていることとの関係性そのものが、生きてゆく目的だったりするのかも。

結果ではなく、過程を大切に。
と、言われても、やっぱり欲があるから、成功したいと思ってしまう。
それを捨てることは難しい。

けれど、関係性が目的なら、変われるかも。
相手がいれば、どんな関係が築けるのか?
腹を割って話せる?
腹の底から笑いあえる?

製品を作るなら、そのことについて、
どれだけ知ることができた?

何もないなら、天気は?
日差しは?
風は?
小鳥のさえずりは?

今、自分は快適だろうか?
寒くない?
お腹減ってない?

世界は絶えず私に与え続けている。

その時、求めるものが目に入るだけ。
一人でいても、常に自然は存在する。
音楽も、ネットも、動画もある。
用がなくても、出かけられる。
そんな気分であるかどうかは、別の話だ。

選ぶ自由があり、
選ばなくても与えられている。

そんな豊かな世界と、
私はどんな関係を築いてゆくのだろう。

この世界を知りたい。

 fumori 

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