見出し画像

自己愛過多でも誰かの役に立ちたいのなら、自分のためにやる。

身も蓋もない結論にたどり着いてしまった。

現実が苦しのは、性格が悪いから。
あくまでも、私の場合。

感受性が強すぎて、繊細な人間だと思いきや、人の痛みを自分のこととして感じられるような優しい人々とは、真逆の人間性だったみたいです。

どうしてこうも現実がままならないのか?
食うに困らず、健康なのに、
日々の幸せを感じられないのか?

下を見ては安堵し、上を見ては羨望する。
そんな自分を嫌悪しながら、
それが人間だと開き直っている。
同情して欲しいくせに、
憐れまれたら怒りを感じ、
脆弱な精神を叱られたら、
わかっていないと逃避する。

こういう人をどう思う?
友達になりたい?

私なら、ごめんだ。面倒くさい。

なにをやっても、言っても、真意が伝わらない。
自分の視点でしか、物事を見られないから、
意思の疎通だけで苦労する。
下手をしたら、逆恨みされかねない。

って、とんでもない危険人物じゃん。私。

性格の悪さで片づけていいものか、
悩むくらいに迷惑な人だよ。

そんな性格の悪い自分を認められなくて、
自己弁護のために、全力を注いでたんだから、
そりゃ、疲れるよね。
現実を捻じ曲げつつ、辻褄が合うように
理論風の妄想を展開し続けているのだから。
現実を生きる気力なんて、残らんよ。

人生を賭けて自己弁護し続け挙句、認めたら、現実が辛いのは、性根が悪さが招いた当然の因果、なんて思えるんだから、不思議なものだ。
これまでの無駄の努力を悔いるというより、
労う余裕さえあるんですけど?

なんだったんだろう。

自分が悪かったことは認められたのに、
性格の悪さは、拒絶した。自分を守っていた。
守る必要があったってことかな?

目を背けている自分って、
心底、嫌いなタイプだからね。
絶対に許せないと思っている
性格が、感情が、自分が、それが本性だって
受け入れるのは、しんどいよ。やっぱり。

自滅してゆくようなものだから。

これまで自分にとって正解だった価値観を破壊する作業なので、揺らぐし、不安だし、怖いし、自分が可愛い自我は、全力で阻止してくるし、こんなことやらなくても生きられるなら、死ぬまで逃げ続けると思う。

つまり、そうしなきゃならないくらい、
価値観が凝り固まってしまうタイプなんだね。

視野が狭くて、自分のこと以外、興味ないから、
客観的に考えようとすればするほど、
主観に偏ってしまう。
休むに似たり。むしろ、害悪か。
案外、考えない方がうまくいくのかも?

たぶん、心が健全なら、
考えなくても受け入れられるのだろう。

どんな自分も、感情も、現実も。
不安や、恐れがあっても、向き合える。

心の強さとか、健全さって、なんだんだろう?

どうしたって許せなかった自分を認められるようになったのも、空っぽになった心に、なにかが戻ってきたからだと思うんだよね。

ネガティブな感情を認められるようになって、
外に吐き出さないよう心の容量を広げて、
どんなに意地の悪いことを考えても
裁かずにすむようになって、
心の中に限っては、本音で生きることを許せた。
やっと。

本音を自由にさせることで、
自分に安心できるようになっていったと思う。

なら、世界が怖かったのは、
自我が本音を裁き続けていたから。
現実に躓くたびに、自分へのダメ出しが始まる。
だから、世界のルールを知りたかった。

私の知っているルールでは、
この現実を快適に生きることができなかった。
裁かれることに怯えずに生きられるように、
知ることを求めていたのかな。

今だって、世界は怖いし、
未来には不安しかない。
けれど、
自分に安心していると、恐怖も不安も、
これまでの何百分の一くらいにしか感じない。

自我って、感情を増幅するんだろうね。
レバッジを賭けて、大量に生み出す。

感情の全ては愛だとは言え、
ネガティブな感情を増幅されたら、
たまらないよ。

なので、本音を縛らないでいることは、大事。

なかったことにするくらいなら、
悪口でも愚痴でも、
吐き出した方がいいんじゃないかと思う。

あれほど、迷惑だとか言ってたけれど、
悪口を言い合う関係が成立するなら、
それはそれかもしれない。

ま、私は、聞いていると、
こんな世界滅んで欲しい
と願ずにいられなくなるので、
今後も逃げるつもりだけれど。

自分に安心するという感覚を知って、
気づいたことがある。
知ってたんだよね。
幼いころの無敵な私は。

苦しみを環境や遺伝子のせいにして自分を守ってきたけれど、ちゃんとまともに育ってた部分もあったみたい。
途中で落ちこぼれたけれど、わがまま全開で苦労したけれど、私を救ってくれたのはそんな無敵な記憶みたいなものだった気がする。

現実を生きるには邪魔だった自分を、
誰よりも信頼していた。

だとしたら、与えられたのだろうか。
信じるとも思わずにそうしていたから。

私の欲しい愛は与えられなかったけれど、
必要な愛は与えられたし、受け取っていた。

もしかしたら、自己否定も、存在否定も、
心の深部では自己信頼があるから、
できたのかもしれない?

まあ、そもそもその自己が存在しないらしいし、
自己愛過多の反動だっただけのような気もする。

どこまでが自己愛で、自己信頼なのか見分けがつかないけれど、自己愛過多で現実に問題を抱えている私の場合、この先、なにがあっても、結局は自己愛によって救われるのだろう。

人に迷惑をかけても、
自分を守ろうとする図太いタイプってこと。

なので、役に立とう。
毎日、一つでいいから、誰かの役に立つ。
偽善でいいから、
世の中のためになるとされていることをする。

自己愛が強いなら、自分のためになることは、
無意識にでもしまくってる。

自分以外の役に立つ。
自分以外のためになることをする。
やった後の感情が期待通りでなくても、やる。

自己愛が強いなら、
尽きないほど大量にあるってことかもしれない。

なんにだって、二つの作用がある。
解釈がある。価値観がある。

自己愛が強くてよかったことだって、
きっと、ある。

何があっても、私は自分を救う。
そんな利己的な自分を信じている。
欲望に忠実な最低な自分は、
誰よりも信頼できる。

最低な自分は、裏切らない。 

自己愛に裏切られることがないなら、
人類愛に目覚めることはないのかもしれない。

ただ、自己犠牲に陥らず、
自分のためが、誰かのためにもなる。
そんな生き方が用意されているのかもしれない。

ちょっと未来に期待したくなってきた。

 fumori 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?