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一年前にやっておけばよかったことは、一年後に叶うこと。

もしかしたら、
私は豊かな人生を送ってきたのかもしない。

ふと、そんなことを思った。 

降って湧いた言葉と感情が、
妙に印象に残っているものの、
なぜ、そんな想いが浮かんだのか、
心当たりがないのであった。

散歩の途中の夕方のこと。

なんとなく心に残る言葉が張り出されるお寺の掲示板の前で、読めない漢字を眺めていた。

何をもってか 枉(まが)れるを直さん
by 聖徳太子

読みも意味もわからないまま、
また歩き始めて、唐突にボヤく。

せめて一年前に、やっておけばよかった。

ポジティブな気分ではなかったけれど、
ネガティブでもなかった。
後悔までいかない愚痴を言った後、
すぐに、思い直して、黄昏れていたから。

それって、今から始めれば、
一年後には叶っているってことだ。

それから、
なんにもない自分の
本当になんにもない有様に、驚いた。

見事になんにもない。
お金も、地位も、名誉も、
知性も、品性も、愛嬌も。

そして、納得もした。
得ようとしただけで、
会得しようとはしなかった。

自我が望んでいたことだから。
本音からしたら、無駄な努力でしかない。
身につけても、意味がないと思ってるんだもの。

だとすると、
努力してまで、得たいものではないから、
今の私には、なにもない。

本音が現実に望んできたのは、
なにもしないことだったのだろうか?

その瞬間、過去への想いが反転した。

後悔。理不尽。世界なんか滅びればいい。
そんな思春期を拗らせて生きてきた。

出来なかったこと
やらなかったこと
やりたかったこと

過去は後悔を数えるためのものだった。

けれど、
やればよかったことをやっていたとして、
今の現実となにが違っていただろう?

嫌で嫌で、心が梅干しの種みたいに、
小さくカピカピになっても頑張って、
やっと手に入れたとして、
それは、欲しかったものとは限らない。

一年前に始めていたら、
一年のほとんどを苦痛に感じだだろう。

自我の言うなりに変わろうとした、
去年のように。

自分を武装するための目標なら、
やらない方が豊かだったかもしれない。

そもそも、
なにもない今があるのは、
現状こそが、理想なのでは?

まあ、そんな訳はないのだけれど、
それでも込み上げるものがあった。

十分とは言えない収入だったけれど、
周囲に助けられて、食うには困らなかった。
健康なのは、両親と先祖の遺伝子のお陰。

お金がなかったけれど、友達もいないから、
お付き合いの費用はかからなかった。

相手に合わせなくてもいいから、
食べたいものを食べに行けたし、
行きたいところに行けた。

女子が行きたがらないような場所や宿も、
予算の都合で使えた。

社会に迎合してきたつもりだったけれど、
案外、アウトローな生き方もした。

抑圧してきたつもりが、
感性のままに生きてきた。
感性を満たすため、かな。

仕事が続かないことを、
我慢のできないダメな奴だと思っていた。

もうそれは、その通りなんだけど、
我慢の代わりに、必ず得たものもあるはずで…

まぁ、思い当たりませんけれど、
あるんです。必ず。

私に見えているネガティブな側面ではなく、
ポジティブな意味もある。これは、絶対。

そんな逆転の発想に至ったのは、
二人の言葉に触れたから。

一人は、為末大さん。

陸上選手って、二十代中盤くらいから「老いる」という感覚を味わっていくんです。

だんだん体が思うようになる「かなしさ」と、
いましかできないことを最大限にやってやるという「よころび」がセットになってやってくるんですよ。

きっと、失ってゆくほどに、
今の密度が増してゆくのだろう。

だとしたら、失うことは、
とてつもない贅沢なこと。


二人目は、瀬戸内寂聴さん。

昼に洗い物をしていた時のこと。

記憶なので、間違っているかもしれないのだけれど、出家した際のインタビューで、自分のことを「しようもない」と仰っていたことが、ひどく心に残ってる。

出家する前の彼女は、
あれば幸せだろうと私が願う殆どを得ていた。

地位も名誉もお金も健康も家庭も恋人も
知性も愛嬌も交友関係も…

そんな人生の成功者であり、
人並みならぬ努力をしてきた人が、
手に入れた現実を手放してしまった。

現実の楽しさと
自我が満ちることは違うのかな?

なら、望んだ通りの現実を手に入れたとしても、
今の私が満たされているとは限らないわけで、
もしも、私の本願が自我からの解放だったら、
無駄な努力だったかもしれない可能性も…

いや、それでも、お金や技術は老後の役に
立つだろう。なにもない私とは違うか。
ただ、手段と目的は、違った。たぶん。

私が望んでいたことは、
自我から解放されて、自由に生きること。

現実は、そのためのステージ、
目的ではなく、手段。

そして、今の私は、少し前より、
随分と自由になった。

肩の力が抜けて、
お腹に力が入るようになった。

なんの保証もないくせに、
不安しかないのは変わらないのに、
なぜか未来が楽しみだったりする。

一番欲しいものが手に入ったなら、
過去なんかなんだっていいや。

だいぶ、時間はかかったけれど、
腑に落ちた。

人生をどう使うかは、私の自由。

そして、これまでだって、
案外、自由だった。

なにも得ない人生は、無駄な極地。
無駄な人生は、最高の贅沢。

というわけで、
実りのない人生だったけれど、
自由で、無駄で、ある意味贅沢で、
豊かな人生だったとも言えるようになった。

ほぼ負け惜しみだけれど、それでも、
ポジティブに捉えられる能力は喜ばしい。

同じ現実を生きていても、遥かに気分がいい。

必ず、二つの見方が存在する。
両サイドの世界を保つこと。

これができれば、絶望の中に、
最高の希望を見出せる。

私が欲しかった自由は、それ。
現実に左右されないほど、
圧倒的な自由。

無駄な人生に、心から感謝できそうだ。

 fumori 

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