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私はこれからも調子に乗って、叩かれて生きて行くのだろう。

図に乗る。

成功した人をそんな風にこき下ろすのは、羨ましいからだと思っていた。
嫉妬してる暇があるなら、なにかやればいいのに、と。

けれど、そういうことではないのかもしれない。

上手くいっても謙虚でいられる人と、私のように舞い上がってしまう人間との違いは、どこにあるのだろうか?

無理だと思っていたこと。
ダメだと諦めていたこと。

そんな成功は、嬉しい。
自分を誇らしく思うし、自信もつく。
気が大きくなるのは当たり前。

けれど、叩かれるほど調子に乗ってしまうのは、誇らしい自分を認めてほしいと心の奥底で願っているから。その承認欲求が鬱陶しいのではないだろうか?

成功して自信がついたのなら、成功する前は自分のことを恥じていたり、嫌っていたりしたのだろう。

だから、変わりたいと願って、努力して、成功した。

それは、素晴らしいことだ。
けれど、頑張ったからこそ、抜け出せたからこそ、はしゃいでしまう。

自分が嫌いで、その不足を補おうとして成功した場合、自信のなさを補うために、理想の自分に辿り着かなければならなくなる。
その努力は大変なものだろう。

逆に、今の自分を認められていたら、手の届かない目標は抱く必要がなくなる。
ちょっと頑張ればできることを、サクッとやる。
一つ成功したら、また次へ。

無理はしていないから、褒められなくても構わない。必要だからやるだけ。
その姿勢を人は謙虚だと感じる。

自分はすごいのだと、人に示そうとしたがるのは、成功が存在意義に等しいから。
成功したのだから、ここに存在していていい。
求めているのは、成功というより、承認。

ここに存在していることを、許してほしいという切望。

そもそも自信がないから、成功しても不安は続く。失敗したら、存在意義を失ってしまう。
いつでも成功していなければ、自分を愛せない。

本当に、哀れな人。
ただ、褒められたくて、認められたくて、無理な努力をして、実力以上に出来るフリをして、いつでも不安で仕方がないだなんて。

楽に生きられるはずがない。

そんな可愛そうな私なので、調子に乗っても大目に見て欲しいけれど、見ていて不快なら、仕方ないよね。
心の中は、何を思ったって許される。反撃される覚悟があるのなら、叩くのだって自由だ。

なら、私はこれからも調子に乗って、叩かれて生きて行くのだろう。
謙虚に生きることができないなら、叩かれる覚悟をしておけばいい。

誰も、私を傷つけることはできない。
私を虐げるのは、私自身だけだ。

不快を撒き散らし、調子に乗って生きるしかないなら、従ってみよう。

自分とは程遠い生き方に苦しむよりは、マシかもしれないから。



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