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2020年6月22日『系外の目』

ボードゲームの話

 知人らとボードゲームをした。遊んだのは「インカの黄金」、「カタンの開拓者」、「バトルライン」、「マジックメイズ」。久々であったことや、初めてプレイするゲームもあったことで、かなり盛り上がった。

 「インカの黄金」は、障害を躱しながら秘宝を集めていくゲームだ。山札からめくられるカードが「障害カード」か「宝石カード」か、あるいは「秘宝カード」であるかを毎ターン推測して、撤退するか前進するかを選択し、できるかぎり多くの宝石や秘宝を獲得していくというコンセプト。今回初めて遊んだゲームのひとつだった。
 このゲームは、「他のプレイヤーが撤退を選択していないときに撤退することで報酬を多く獲得する」という点が重要だ。そういう意味では、本質的な部分はゲーム理論における「チキンゲーム」に似ている。似ていることを知っていても、ゲームに勝てはしないのだけれど……。
 「カタンの開拓者」は昔よく遊んだのだが、もう5年くらいプレイしていなかったので、すっかりやり方を忘れてしまっていた。
 それでも、カタンは本当に楽しい。これだけで丸一日遊べる。「あと一手で勝てたのに!」と今までの人生で何回思ったのか分からないが、今回もやはり同じことを思った。思ったし、言った。今後も言っていくと思う。

 これは「バトルライン」。「同時に9カ所でポーカーを行なう」というシンプルなデザインでありながら、必要な思考の幅が広いゲーム。9カ所というのがちょうどいい。全ての戦況を把握できそうで、でもギリギリ見落としが発生する。2人用ゲームで一番好きだと思う。

作品を楽しむ感性について

 とても好きだった短歌の作家がいた。どの詩を読んでも胸を打たれる心地があったし、初めて詩集を買ったのもその人だったはずだ。詩は国語の教科書でしか触れたことがなかったので、「短歌らしくなさ」が好きだったのだと思う。どうしたらこの単語を引っ張り出せるんだ、という言葉の選び方も好きだった。
 好き「だった」と書いたのは、今では別に好きでないからだ。最近読み返して、記憶の中にあったほどでもない、と気づいた。好きだった「それらしくなさ」も、今考えればよくある手法に思えたし、どうしてそのワードを用いたのかも、推測の域は出ないが想像することができる。

 私は本当に文学の世界に没入できていたのか、と思う。私が文学の楽しさだと思っていたものは、「単なる目新しさ」や「分からなさ」なのではないか。そして、それらがよくあるもので、分かるものになってしまったからつまらなく感じているのではないか。宇宙物理学者が、系外惑星は既知の運動法則に従わないから興味を惹かれるようなものであり、本当の意味でその世界を楽しんでいるわけではないのではないか。
 構造のかたちや作り込み、製作者の思考の奥行きに考えを巡らせることは、実は表面上でしか作品を見ていないし、表面上しか見ていなくてもできることだ。本当の意味で心を打たれているわけではない。もし心を打たれているとすれば、それはその世界そのものに対してではなく、その作品を生み出した製作者に心を打たれているのだと思う。
 たとえばアイドルマスターシャイニーカラーズに対して行っている「考察」みたいなそれらは、ある種の手癖だという自覚がある。もしかするとそれは、作品を問題の一つとしてしか見做しておらず、製作者との思考ゲームを楽しんでいるだけのことなのかもしれない。感性による接触に答えはないが、分析には製作者の意図という答えが必ずある。それを露わにしたいだけなのではないか。思うままキャラクターを推したり、セリフに心をときめかせたり、ifのストーリーを妄想することの方が、深く長く作品を楽しめるのではないか。そして私は、すでにその能力を失っている。

 私は多分、文学的な感性を養うよりもっと先に、頭でっかちな分析のしかたを学んでしまった。読者、作品の受け手としての能力を養う前に、作品を外から調べる批評家としての目を持ってしまった。あの短歌が色褪せて感じられたように、私はいずれこのコンテンツに飽きてしまうのではないかと恐ろしく思う。
 


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