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誰かの為に、と思ったことが1度も無い


よく、"〇〇の為に"という言葉を耳にする。

それは、世界だとか日本だとか、
すごく大きな範囲のものもあれば
多くの人に知ってもらいたいもの、それから
家族や友達、恋人、ペットなど
身近な存在に向けられていることもある。

そういう言葉を耳にすると、私は必ず
『でもそれは結局自分の為なんじゃないの。』と思ってしまう。

そう言ってしまうことで良く聞こえるけれど、
本当の目的はもっとそうでは無くて、結局のところは自分の存在意義を確かめる為だったり、もしかしたら自分に納得したいが為の言い訳なんじゃないかと思う。


"〇〇の為に"の"〇〇"は、1番重要なことでは無いのでは?

こういうことを思い、わざわざここに書いている私はひねくれていて、世間一般的にはおかしいのだろうか?


こう思ってはいても、例えば募金だとか
友達の相談に乗ったりだとかそういうことを
全然しないわけでは無い。


目の前の募金箱へお釣りを入れると、
そんな自分が良いことをした気がする。

こんな私でも相談を聞いてほしいと言ってくれる人がいれば、それはとても嬉しい。

私だって良く思われたいし思いたい。
そういう時、"自分の為"だなあと思う。



考えてみれば、私の行動を決めるきっかけが
"誰かの為に"になったことは今まで1度も無い。


友達はとても大好きだし、
もちろん家族や恋人もとても大切で大好きだ。

ただ、全て自己中心的になっている。
しかもそれが分からないように、いかにも相手の為にしたかのように見せてきたから本当に自分でも自分のそういう部分に引いている。

そんな、自分でも引いちゃう部分を持っているからか、誰かの優しさに触れてすごく嬉しい、幸せだな〜と思った後に『その言葉や行動の裏には本当はどんな感情があるの?』とぐるぐる考えてしまうこともある。

こういうことを考えていると、私ってとことん冷めきっている嫌な奴だなと思うし、複雑に絡まったイヤホンをほどいている時みたいな気持ちになる。

あれって本当に投げたくなるよね。

もし本当に心から"誰かの為に"と思える人がいるのならば、すごく羨ましい。そうなりたいとも思う。



私はそういう感情が欠けている、
冷め冷め冷酷人間なのかもしれない。




自分で言うのもなんだか変な感じがするけれど
慣れない人や初めて会う人への愛想は良い方だと思う。

というか、感情を全部丸めて自分の中の引き出しに上手く隠すことがとても得意。

なので、慣れてくるとそれが崩れてきたりして
とても大変だったりもする。

今まで隠し通してきたものをうまく引き出しに入れることが出来なくて、キャパオーバーになってしまう。

これはもう、学生の頃から無限ループにハマってしまっていてどうしようもないのだけれど。


"これ"があるせいで、私の短所は
どんどん増えている気がする、、、





私が悩むのは矛盾している時しかない。

頭では分かっているけれど、でも、、!という感情とよく戦っている。




ただ、そんな冷酷大魔王みたいな自分のことはあまり好きになれないけれど、そういう事をねちねち気にしてしまう自分のことはそんなに嫌いでもなかったりするし、今は自分の為に甘やかしてもいいかなあと思っている。






#日記 #エッセイ

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