泥泥泥日記 8日目
10月2日
地震発災以後1月19日から、薪ボイラーで湯を沸かし続けているあみだ湯は、この度の大雨からボランティアセンターのような役割も担っている。常連の方から相談事の聞き取りをしていて、必要がありそうだったら日中ボランティアを派遣する。今日もその案件からボランティアをする。まず、あみだ湯の地主さんの家に伺って、取り壊し予定の納屋から、大きな米ストッカーを4人で搬出。母屋も公費解体が決まっているそうで、裏手に新しく作ったハウスの中に、居住空間を作っていた。手前に金属製のラックが並び、奥手に畳が敷き詰められている。冷蔵庫も、テレビもある。ハウスの内側には断熱材も貼られていて、なかなかあったかい。そこへ米ストッカーを移すと、一人じゃどうにもならんくて、ボラセン(公的な)にお願いしようと思ってたとこだった〜、とお父さん。いつでも困り事があれば我々呼んでくださいねって言って別れた。元々する予定だった大工仕事は、ほとんど終わってしまっていて、片付けも自分一人で時間をかけてしたい、とのことだった。半日仕事かなと思ってたが、ものの10分くらいで終わってしまったので拍子抜けして、一度あみだ湯に戻る。
小雨がぱらついてきた。この後の動きどうしようかなと少し逡巡した後、
明日は雨足が強まりそうだから、今日のうちにもう一度町野のもとやスーパーに行こうかなと思った。あらかじめ、電気湯の大久保さんとあやねさんに
もとやスーパーへ持っていく果物やお菓子、ビールなどの嗜好品の買い出しを頼んでおいたので、それを届けるためだ。一応しんけんさんは僕らの午後の仕事を作ってくれていたのだが、町野に行きたい旨を伝え、3人で向かう。
道中、大久保さんたちが前回であった惚惚というカフェのところにも物資を持って行きたいというので、いくつか買い足して渡しに行った。
そこのオーナーさんも家が地震で使えないので、車か店で寝泊まりしてるとのことだった。表情に読み取れるいくつかの疲弊と、落胆。でも前を向いて動いてる姿。奥能登のみんなは今そうして日々を繋いでいる。もう一回きたら本当に心が折れてしまうのを感じるし、ここの人たちはたくましく生き続ける未来も見える。潮目が前者にならないように、余所者としてできることを考え動くまでだ。
さて戻って来た町野。もとやスーパーへ直接品物を下ろす。どんな物でも、受け入れてくれる。買ってきたタバコも渡す。前回何が欲しいか聞いたところ、嗜好品の類はやっぱり誰も支援しないそうで、タバコを欲してた。
本谷さんに断りを入れて、スーパーの中のまだ描き出されてないたくさんの商品混じりの土の中から、金属類やパレットなどを外へ出す。この現場には、業者の重機も入ってて、プラスでボランティアも入ってる。そのうち業者が上がったので、我々3人だけになったので1時間くらいゴミを出す。10日ほど経って、食品類や土が腐った腐敗臭がすごい。これはダメなやつだ、と体が反応して長くは中に居られない。物をどかすたびに、動物性の匂いも上がってくる。それに3人では焼石に水状態なので、早々に引き上げる。時計は16時30分ごろを回っていて、続々と物資を受け取りに来るおばちゃんたち。みなスーパーのカゴを持って、欲しい物を集めていく。その様を見ているうちに、炊き出しの焼きそばが余ってるからと、頂いてしまった。
壊れた建物の中で、泥だらけで焼きそばを食べる。たちまち、炊き出しで来ていたキャンドルジュンさんと立ち話してると、流れでまたその炊き出しをもらってしまう。
本谷さんは太鼓あったら嬉しいでしょと、太鼓を叩き出し、テレビカメラも入って、カオスな感じ。お客みたいに次から次へと食べ物が出てきてしまうので、いいところで退散。
日本の1番さいはてで、しかし人のまんなかで在った場所。荒廃と諦め、寂しさは薄く、それでも強く生き抜くドキュメントを生で目撃した。まだこの町は火が灯っている。薄暮れていくもう秋の空に、小さくともはっきりと光を発していた。本谷さんのそうした状況にありながら、あの柔和な表情がどれだけの人を救っているだろう。
余韻に浸りながら珠洲へと戻る。
あみだ湯に戻ってしばらくし、朝食の買い出しに行こうと思うと、車がパンクした。町野で土砂の中の釘でも刺さったか。
何くそと思ったが、それ以上のことを目の当たりにしているからか、やっちゃったかぁという感じ。その場にいた森田さんと大久保さんらが、雨がそこそこ降る中でスペアタイアを見つけ手際よく取り替えてくれた。
向こうのほうではゆとなみ社の3人がまだ作業している。
こんな仲間は心強い。明日の僕のボランティアが流れて、車屋に行く用事ができただけ。いろいろなことがあって、疲れも溜まってきてるので早めに眠る。
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もとやスーパー
惚惚
あみだ湯
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