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始まりの旅

近くて遠い国  始まりの旅

中学時代、沢木耕太郎の「深夜特急」にはまっていた。
貪るようにして読みその世界観に取り憑かれて行った。

冬休みのある日、たまらなく家を出たくなって電車に飛び乗った。
目指すは釜山。飛行機でなくて下関まで行きフェリーで渡ろうと考えた。
移動することが一つの目的なのであって、たった1時間くらいのフライトで着いてしまってはつまらない。
そして18切符を使えば、鈍行電車に揺られ下関まで、景色の移り変わりを見ながら旅できる。
出発の朝、なんとも言えない自由さに胸が高鳴った。しかし大阪を過ぎるあたりで、外が次第に暗くなり始めた。鼓動が早くなっていくのを感じる。

初めての知らない街を通り過ぎる。制服を着た高校生で賑わっていた車内は、いつの間にか仕事終わりのサラリーマンが埋め尽くしていた。電車の車内は、外の社会の断片のようだった。
泊まる所や帰るべきところがない。それは自由のようであって、実は不自由だ。
不安が頭を埋め尽くし、喉が乾く。
沈黙が続くその空間で叫んでしまいたかった。
仕方なしにバックパックに詰め込んできた、ユースホステルの小冊子を注意深くみた。青少年を応援しているとは言え、14歳の僕はどこの宿にも泊まれそうになかった。最後のページを開くと旅の便利帳になっていて、キャンプ場のリストなどが乗っていた。

あらゆる方法を考えたけど、泊まれそうになかった。心細かった。
そんな時フェリー会社の情報が目に留まった。
あまり期待せずに見ると神戸港ー新門司港行きを見つけた。

電車の中で声を押し殺しながら、電話した。
「あの…今日の便は空いてますか」
「空いてます。学生さんですか?」
こちらが年のことを口にする隙もなく、予約が取れた。
夜10時発、朝6時着くらいの便だったので、まず宿がなんとかなったことに、一安心した。するとまた高揚感が戻ってきた。いま全て自分に委ねられているのだ。

六甲アイランド駅で降り、フェリー会社のオフィスに向かう。
入ったカウンターには予約した新門司港の表記がない。
おかしいなと思った。自分の番が回ってきた。
「新門司港行きで予約したのですが…」
「・・・・・・・・・・・・・」
「えっと、つい先電話した・・・」
「新門司港行き?それは隣だよ」
気が動転していたのだろうか、全く別のフェリー会社のオフィスだった。
顔が赤くなるのを感じ、逃げるようにしてその場を去った。
で、仕切りなおそうと思ったら今度は行き方がわからない。
行くべきところの看板は見えているのだけど、フェンスがあって通れない。
近くに適当な人がいなかったので、フェンスを乗り越えて行くことにした。
ザックを担ぎ自分の背丈くらいのフェンスを超える。
なんだか次第に笑いがこみ上げてきた。
今日会ったことがいちいちおかしく思えてくる。まるで深夜特急の世界みたいだ。

二等和室は、プライベートスペースのほとんどない雑魚寝の部屋で、いやにしんとしていた。仕方なく荷物を置いてデッキに出た。そこには瀬戸内の島や陸地、瀬戸大橋ネオンが光っていた。
水に写ってきらきらしている。さっき通り過ぎてきた神戸の街は賑やかだったが、
海の上は静まり返り、ただ夜景だけが流れていく。

同室だったおじいさんが、たまらなくなって話しかけてきた。
北九州に住んでいて元海上保安官長の人だった。
「韓国行きのフェリーはキムチ臭くてたまらん」と謎の情報を教えらえた。
変に緊張した1日で気づくと眠りに入っていた。

朝、新門司港に日の出の頃につき、デッキで朝日を浴びた。船内のレストランで簡単な朝食をとり、船を降りた。
釜山行きのフェリーも夜行便なので、この日ものんびりと過ごした。泊まるところが保証されている日は、幾分ゆっくりできる。

街を歩く人を観察していると、マフラーやコートに身を包んだ家族やカップルが冬晴れの中楽しげだった。そこでふと
 ああ、1日では帰れないところにきたんだな
と思った。

釜山行きのフェリーに乗るとき税関で、
保護者承諾書とパスポートを見せるとなんてことなかった。
だいたい船の中は韓国人6割、日本人4割くらいだった。韓国の人は大多数がお正月の里帰りで日本から行く人はおそらく観光だった。中にはサッカークラブの少年たちもいた。
同い年くらいだった。あるいは東京なんかに出るよりもっと日常的に、行き来があるのかも知れなかった。
僕は一人で冒険のような旅を求めてここにきた。でも彼らは試合の遠征で、友達と一緒に同じフェリーに乗っているのだ。
そのギャップがとても不思議な感覚だった。そして孤独だった。
日本の海域を超えると携帯も圏外になり、完全に情報をシャットアウトされた。

僕は迂闊にも食料を買い込んでくるのを忘れた。仕方なく売店に行って見たが、韓国製のインスタント麺しか置いていない。
仕方なく高いお金を払って、真っ赤のパッケージの見るからにからそうなラーメンを食べた。
初っ端から韓国の味に押され、タジタジになりながらなんとか食べた。
おそらく今まで食べたものの中で格段に辛かった。
一歩引いて見ると、韓国色の強いフェリーで一人カップ麺と死闘している姿は、なんとも悲しい光景だ。
韓国流の洗礼なのだろうか。この先お腹の調子が不安である。不安が募らないうちに寝ることにした。

朝起きるとフェリーの中にクリスマスツリーがあった。すっかり忘れていたが、僕は誕生日を迎え15歳になった。
僕の人生において、一番静かな誕生日だった。

税関でアジュンマ(おばさん)の係員に
「宿はありますか。知り合いはいるの?」と尋ねられた。
「宿もないし、一人です。」と素直に答えると
「今度からは宿をとってから来てください」と半ば怒りながら強引にスタンプが押された。これで晴れて入国だ。

あとあと考えると皮肉にも、まことに正しき忠告だった。

日本国内であれだけ心細くなったのに、釜山には朝早く着くから、宿はなんとかなるだろうと踏んでいた。ぼくはいつもピンチを迎えるほど楽観的になってしまう癖がある。

それにこの日は土砂降りだった。
とりあえず街の全景を見たくて、中心街を抜け釜山タワーのある街を一望できる丘に向かった。初めての街では、高いところに登り地理を脳に焼き付け、あとは感を頼りに歩くのだ。
ビルが立ち並ぶ通りは、大体日本と景色が変わらないようにみえる。      東横インもあればロッテはもちろんある。
でも一本道をそれると海沿いには魚屋や貝を売ってる店が並ぶ市場があるし、  その反対方向に行けば中華街がある。釜山は、とくべつ日本と地理的に近く、文化が入り混じっている。また日本からの観光客も多く、市場では日本語で「安いよ安いよ」と声が飛び交う。日本より雑多な雰囲気がありアジアの中の釜山だなということを強く意識させられる。
景色や文化が異なり、近くて遠い外国というのを実感する。+

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雨は降り続いている。でも傘を買う気にはなれず全身ずぶ濡れだ。
安宿がどこに密集しているかがわかってきた。一通り街を歩きなんとなく土地勘をつかんだ。夕方の4時ごろ、そのエリアを中心にして宿探しを始めた。まず日本語を喋れる主人がいるというゲストハウスを尋ねた。重いドアを開けて入ったが日本語通じず、尻込みして外に出た。
もう2軒入って確認して見たが、パスポートを差し出し
この年齢だけど泊まらせてくれませんか?
と馬鹿正直に聞くと軽くあしらわれた。次に絶対日本語が通じる東横インに行った。

日本語対応してくれたお姉さんに恐る恐る聞いて見ると、ごめんねといった感じで断られた。
楽観的な考え方でここまで、旅を続けてきた。                が、いよいよ心細さが頂点まで達し、
東横インに入る日本人親子に、「僕の分の部屋をとってもらえないですか。」ときいている自分の姿が頭をよぎった。
それか釜山駅のホームレスと夜を明かすことになるかも知れない。

雨の中、歩き回った体は、限界だった。重たいバックパックが肩に食い込む。しばらく駅のベンチに座り放心していた。

なんとか最後の希望にかけて、立ち上がった。
探し始めて実に四時間が経とうとしていた。汚い格好でほっつきまわっていたぼくは、一つの宿を見つけた。その名もMONAKO MOTEEL。モーテルとは一般的な意味合いで言えば、連れ込み宿である。
が韓国の場合、値段もやすく部屋も広いため一般客も好んで利用するらしい。
あやしさも少なからずあり、それ相応のリスクを負うことを承知の上、とびらをあけて中に入った。
そこに足を踏み入れることは、世間知らずの15になったばかりの僕にとっては一大事だった。
ただ大丈夫かなと思った根拠は、明らかに観光客のスーツケースが入り口にあったからだ。

階段を上ったところにあるフロントは、散らかっていて部屋着のままの女性がいた。
One Room Please
Are you alone?
始めどういう意味か分からなかった。
俺はひとり旅をしているんだから、もちろんひとりだ。でも少し考えると、ここがモーテルだってことを忘れていた。
Yes a only me
2days please
そうさ、僕は一人だよ、二泊泊まらせてくれ
2days?
二泊?
何か都合が悪かったのだろうか、こっちとしてはこんなに苦労した宿探しは、もうしたくない。
少し怪訝な顔をされた。
相場はわからなかったが決して高いわけでもなかったので、部屋を確認するのも忘れお金を払った。
何より早く風呂り入って眠りたかった。

それでもお腹に何か入れなければ眠れないので、荷物を置いて街に出た。
最初に見つけた食堂のような所に入った。
ハングルは分からないので、メニューの写真を指差して、ビビンパを頼む。
この時のレートは1000w=100Yだ。ビンパ一つで5000wはやすいのだろう。
石焼ビビンパが運ばれてくるまで付け合わせのキムチとカクテキを食べる。

韓国風のお茶もトロトロしていて口当たりがまろやかだった。
僕の他に一人しか客はいない。店に入ったとき、テーブルを囲んで食べていた家族は、僕が注文すると急いで、注文を取りにきたから店主とその家族なのだろう。
家庭的なお店で韓国の日常が垣間見得た気がした。

雨に打たれ十二月の寒空の下、冷え切った体をお風呂で温める。いつのまにか自然と眠りについていた。

相当疲れてどれくらい眠っていたのだろう。
もう日はかなり高く登っていた。
昨日の天気とは打って変わって、気持ちいいくらいの冬晴れだった。
さてどうするか?
さして目的も当てもない衝動に任せた旅だ。この宿に帰ってくる以外何も決まっていない。
また叫びだしたくなる衝動が一気にこみ上げて来た。
やったー晴れてる
心の赴くままに叫び走りだしていた。

街のはずれまで歩き、バスに飛び乗った。
乗り方もよく分からなかったが、行きたいその方向へ手をあげ合図をしてみた。
すると思いのほか早いスピードでバスは、突進するかのごとくやって来て、急ブレーキで止まった。
日本とは違い前乗りで車内で運転手にお金を払えばいい。どうやら料金表のないので一律料金なのだろう。
いくらか払えばいいのか分からなかったので、手のひらに一種類づつコインを広げた。
そうすると運転手も意味がわかったようで、これと、これ、という風に受け取ってくれた。

このバスに乗ること一つでもいかに非日常的で刺激的な体験か。
初めての国や文化圏ではこれが何より面白い。バスはジオパークになっている海を目指し、起伏に飛んだ狭い道路をものともせずガンガン進んだ。下手な遊園地のアトラクションより面白い。
僕はそれが韓国のスタンダードなんだって頭で理解しても内心ヒヤヒヤしながら突っ立ったまま、ポールにしがみついた。
気を抜いたら振り飛ばされそうだ。この時ふと海外旅行保険に入ってなかったことが頭を掠めた。
文字通り電車に飛び乗り、ここまで来てしまったのだから、そんなこと微塵も考えていなかった。

バスから降りるとそこから更に、トロッコバスに乗る。バスを降りて長い長い階段を降りていくとそこは断崖だ。
そこにかなりの広さの台地になっているところがあり、自由に歩ける。
途中アジュンマたちが、牡蠣かなんかの殻剥き作業をしていた。
隣には火を焚いて貝を焼ける半屋外の掘っ立て小屋があった。

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まもなくして日は西に傾き、サンセットがよく映えていた。
その時感じた心の中の湧いてくるようなものは、言葉では語れない。
大きな目的をもとに、旅をしているんではない。人はみな偶然の重なりで、今ここにいるというだけなのだ。そうして出会った景色やものや人に、僕らはありのままの姿を投影しているだけなのではないか。

行きバスでやって来た道を、帰りはしみじみと歩いて帰る。余韻というやつに浸りながら。
バスの中から見た街とはまるで違うように移る同じ道を、一歩一歩踏みしめて。

僕は旅の中で誕生日を迎え、自分の中で何かが壊さされ、新しい何かが通り過ぎて言った。

再びフェリーに乗って日本の地を踏んだ時、少しだけ自分が大きくなった気がした。

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