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夏のノルディックウォーキング



真夏の日差しの下では、すべてのもののコントラストが浮かびあがって見える。生物も植物も、本来持っているものの本質を色濃くする、そんな季節のように思われる。中に妖精が入っていそうなクロアゲハの優美さ、黒いリボンのようなオハグロトンボのほっそりした儚さ、そうしたものと対照的な有象無象たちが太陽に焼かれている。美しいものとそうでないものは、今まさにその力を最大化しつつある太陽の下、ハッキリと振り分けられていく。これは、うだるような暑さの中、夏の世界の一部になって歩いた早朝30分の記録だ。

時刻は午前8時、予想最高気温36℃の猛暑日に、私はノルディックポールを持って公園に出かける。森に近づくとひんやりとした空気が流れてくる。早朝のノルディックウォーキングは久々だ。なぜか足元はサンダル履きのままで家を出てきていた。特に問題はなかったが、熊蜂の音に驚いて足早になった際、モグラの掘りたての土がサンダルに入り込み皮の部分が黒く汚れた。森の地面は、あちこちに黒々とした土が盛り上がっていて、彼らの勤勉さを示している。私は、コンクリートの道と踏み固められた森の地面を交互に歩きながら早々に引き上げるべく公園を出た。そもそも、これは、所属するオンラインサロンの「みんなで家を出るRUN」というゆるいオンラインイベントなのだ。参加した事実と写真だけで仲間はきっと称賛してくれるだろう。
しかし、いったいどういうことなのだろう。頭では早く切り上げて帰ろうとしているのに、脚は別方向に向かっていた。ノルディックポールを装着した手は、まだ歩みを止めてはいけないと指令を出す。暑さで混沌とした頭を無視して、手の指令に従った両足はさらに森のエリアに向かっていった。習慣とは恐ろしいものだ。ノルディックウォーキングを始めた頃、私には頻繁に通っていた場所がある。今、手と足が目指すのは、エリア24だ。

気がつくと私は、緑陰の中で大きな洋犬の後ろを歩いていた。グレーの見事な毛並みは、私がこれまで出会ったどの犬よりも「ふわふわ」で、しっぽは「ふさふさ」であった。ぴんとしたしっぽ部分に、もう1匹仔犬が隠れていそうなボリューム感だ。と、洋犬は道端に立ち留まり、飼い主がしきりに話しかけ出した。暑くて嫌になってしまったのかもしれない。ポールは犬が嫌うものなので、追い越しはせず、少し立ち留まり一呼吸おいた。樹上のミンミンゼミの声に耳を傾けるものの、姿は見つからなかった。少しして、犬の歩みが戻ったので、私もゆっくり歩き出し、草に覆われた道へ折れた。

夏草が太陽の光を一身に浴びて、至る所に生い茂っていた。草の勢いがすごくて、私の知っている場所ではないように見えた。ここは、生産緑地エリアという区画された場所で、ノルディックポールを購入した頃、私は練習のために通っていたのだった。1年半前は冬で、吹きすさぶ冷たい風がちょうどよかった。針葉樹や枯れたススキ野原の風景を見慣れていたので、夏に分け入っていくことが少し冒険めいていた。今、聞こえてくるのは、セミの声とはるか遠くの工事の音、それにウグイスが谷渡りする声だ。夏のエリア24は、ほとんど別世界で、針葉樹がびっくりするほど枝を広げていた。入り口から入っていくと空がもう見えない。あいかわらず、モグラ穴は地面に点在していた。ここを気に入っているひとが私の他にもたくさんいると見え、足元の草の間には歩けるほどの道が見える。あまりの植物の生命力に立ち尽くしているのと、先ほどのウグイスが藪の中でホーホケキョ!と鳴き出した。家から15分でまるで桃源郷のような光景だと感心しながら、ポールを持ってその場で振ったりしてみる。思えば、こうしてここにきて、ポールを振る練習やポールで地面を突く練習をしたものだった。感慨にふけっている間にも、手は勝手に動き出し、ポールを振る手はスムーズに動いた。

エリア24の前の道は、地元の方の通り道で夏休み中の子どもたちが竹刀やラケットを担いで、習い事へと自転車を走らせていく。路上では、一人の若者がザザッとスケートボードを走らせ、しきりに技を練習している。私も、気に入ったこの場所で、ノルディック素振りがやめられない。藪のウグイスの鳴き声まで、かなり個性的な調子を帯びてきた。それは、「ホーホケキョーウ」とおしまいが効果音のような高い音に変わってしまったり、「ホーホケキョ ケキョ ケキョ」と音が2つ多かったりした。ウグイスの谷渡りという一連のフレーズにいたっては、本当の譜面が自分でもわからなくなってしまって、どこで止めていいのか戸惑っているようだった。合間に、ザザッとスケートボードが動きを止める。繰り返される音のリズムの中で、私も練習に集中する。そういえば、冬、となりの区画ではジャグリングの練習をしているのか、男の子がススキ野原の向こうでディアボロを操っていた。きっと、この場所の静けさが、集中力を最大限に引き出してくれるのだろう。

思いがけず、長い30分になってしまった。頭を空っぽにして何かに集中する時間を私は求めていたのかもしれない。整体に通っていても、本当はそれだけでは足りなくて、だから私の手はこの場所を思い出させてくれたのだろう。行きの道で、怠惰な日常の延長上を歩いていた自分は、真夏の日差しに照らされることがどうしようもなく嫌だった。生ける屍であることが否が応もなく分かってしまう、そんな気がした。でも、帰り道には、もうどうでもよくなってしまって、私も早く帰って好きなことをやーろうっと思った。