ふわふわと秋の道を走ってる

秋になって、また走るようになった。9月のよく晴れた日曜日、足は以前のランニングコースに向かった。夏の間、元気のよかったツクツクボウシの声はなく、涼しい風をまとって走ることのできる季節になっていた。ランニングをしていた頃からだいぶ間が空いている。重い身体を支えている足は、意外にも軽快に地面を蹴り上げていく。一連の動きと感覚は身体に残っているのだろう。そのことに少しほっとして、それからは、仕事の帰りにも走って帰ってくるようになった。鈴虫の鳴き声の中をタッタッタッと移動する。自分の足で淡々と走り抜ける夜の道では、目に映る景色が全部綺麗に見えた。
走りながら、時々Stravaの走行距離を確かめる。動いている記録は、私の走りを見てくれている目のようだ。遅かろうと早かろうと、歩こうと走ろうと、私の動きは計測されて今日のデータに残る。良いことがあった日も、あまり楽しくなかった日も、白い背景に走った時間の記録は浮かび上がって見えた。くっきりした字体で記された記録が増えていくたびに、自分の足で移動したこと自体がただ肯定されているように思えた。

走るためのアプリも、自分自身が走ることについても、今ではすっかり身近に感じる。だけど、走り始めた時は、そうではなかった。そのどちらもにも親和性はなく、どこかの誰かのためのものとしか思えなかった。それは、子どもが新しい遊びを目にした時の反応と似通った感情だ。私は、幼い子どもたちに関わる仕事をしている。彼らは、新しい遊びや目新しいものに敏感だ。しかし、はじめはそれらを良いとは思えず、やらない、と言ったりする。でも、しっかりそばで見ていて、それがどんなものなのか目にする情報を頼りに読み取ろうとする。把握できたら、一歩進めて、自分も新しい遊びの流れに加わるのだ。

私の場合は、およそ3年ほど前にそんな革命が起こってランニングを始めた。ランニングという新しい遊びに入れてくれたオンラインサロンのランニング部の仲間がいたからだ。活動を見ていただけの時、初めて走った時、オンライン、オフラインのイベントに参加した時、そこには常に見ていてくれるメンバーさんの眼差しがあった。もしかしたら、私が感じていることと、他のメンバーさんが感じていることは同じじゃないかもしれない。けれど多分、ひとが何かを始める時や一歩前に進んでいきたいような時は、ただ見ていてくれる目があるだけで十分なのではないだろうか。ただその人の現在を肯定する眼差しも、教育の一種だと私は思う。 
走る感覚を呼び覚ましながら、走り始めた時の記憶を思い起こしながら、駅からの帰り道を自分の足で移動する。このささやかな自由の享受を、私の全身の凝り固まった筋肉たちは万歳しながら喜んでいる。走るたびに、肩の力も痛みも、いつの間にかふっと抜けていく。
すると唐突に、過去の帰り道の記憶が蘇ってきた。最寄り駅から実家までの道に、私を見つめてくる白い犬がいた。吠えるでもなく警戒するでもなく、青い瞳で見守っている。その子はぼうっとした目でいつも見つめていた。穏やかな性格なのか、ぽーっとしているのか、あまり声を聞いたこともなかった。でも、ただこちらに目を向けて見ていてくれるだけで嬉しかった。
変わり映えのしない日常だと思っていても、実は何でもないことに力をもらっていたりするのかもしれない。もちろん、その逆のものを感知して悲しく思ってしまう時もあるだろう。あの白い犬のような眼差しで何となく日々を走っていけたらと思う。