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三浦の坂道、自転車旅

学生の頃、遅刻をすることが多かった。卒業後、かなり長い年月が流れているにも関わらず、出席日数が足りなくて卒業できない夢を見る。夢の中で私は、その昔、隠れキリシタンが暮らしたという里山に建てられた大学の、急勾配の坂道で、大嫌いな先生に頭を下げている。そして、絶対絶命の窮地に立たされた状態で目覚め、もう私を縛るものは存在しないことを確認して安堵する。

その日は、そんな悪夢を見たわけではなかった。ワクワクしすぎて寝付けなかっただけだ。身体が起きない朝は支度も遅い。気がつけばバスに乗るはずの時刻はゆうに過ぎていた。待ちに待ったランニングイベントの日なのに、参加するメンバーへのおはようの挨拶は遅刻連絡となってしまった。

ハレの日の朝に、遅刻という日常のケを持ち込んでしまった罪とうつろな身体を乗せたバスは最寄駅に到着した。私がどんな気持ちでいても、3月の空は明るい陽射しを降り注いでいる。開催中止になってしまった三浦国際市民マラソンで走るはずだった海岸沿いを、これからみんなで走りに行くのだ。まだ眠い頭には三浦の景色がうまくイメージできないまま、私は海までの電車に揺られていた。

ロックダウン中に走るようになった私は、5キロから7キロほどなら日常的に走ることができるようになっていた。そんなふうに自然と走り出せたのは、オンラインサロンのランニング部のメンバーの存在によるところが大きい。的確なアドバイスと温かな眼差しのおかげで、歩くことと同じように走ることも楽しいと思えるようになっていた。すでにランニング部のメンバーは、三浦海岸に集まり予定時刻にスタートしている。自販機で購入した緑茶で頭をフル回転させた私は、三浦海岸のレンタサイクルでみんなを追いかけることに決めた。

電車が三浦海岸駅に到着すると、三浦レンタカーという文字が目に飛び込んできた。転がるようにお店まで走り、レンタサイクルの手続きを済ませる。レンタサイクルは3日前からインターネット予約が可能で、当日レンタルは保険証などを提示しての本人確認が必要だ。受付の方は優しくて、必要な情報を端的に伝えると、電動アシスト付き自転車を低くしてくれて、海岸の方向を教えてくれた。私は赤い電動自転車を三浦海岸に向かって発進させた。

よく考えてみると、遠野の町を自転車で走って以来のレンタサイクルだった。そもそも遠野の時は電動自転車だったのだろうか。どのくらいまで速く走れるのか、海岸沿いの遊歩道で確かめてみる。電動自転車は、面白いように「つーつー」と進んだ。これなら、みんなに追いつくのも時間の問題だ。安心した私は記念撮影をして走り出した。

左手に海を見ながら走っていると、中止になった三浦国際市民マラソンのコースを勝手に走っていると思われるパーティーに遭遇した。大会事務局から郵送されたTシャツや、手書きのゼッケンを装着して颯爽と風を切って先をゆく。何て爽やかな方たちなんだろう。海風も彼らを祝福しているかのように、紅梅と磯の香りを運んでいる。私は、その横を赤い自転車でつーつーと走ってゆく。坂道を登るときも、この電動自転車なら疲れるということがないのだった。申し訳ない気持ちのまま、赤い自転車とリンクしてしまった私は、とうとう補給地点である丘の上のコンビニに辿り着いた。しかし、すでにみんなはこの地を発ったあとだった。今頃は丘の上の畑の道を走っている頃だ。遅れた私を気遣って、海岸に引き返して待つようメンバーさんからメッセージをもらった。私は、見渡す限り野菜畑の丘の上を少しだけ見学してから引き返すことにした。収穫された野菜が、軽トラックの荷台で豪快にホースの水を浴びていた。目の前に広がる風景が大きいので、ゆっくりと畑を見て回るおじいさんは、映画の中の登場人物のように見える。

しばらく行くと下り坂があり、漁港に通じていることがわかった。漁港の写真を1枚撮ってから引き返そうと、私は赤い自転車で下っていった。けれども、かなり下ったと思っても坂道が終わらない。確かに漁港はすぐそこのはずだと不安になりながら自転車を走らせる。急坂とカーブのある坂を降りたところで民宿に出た。と、お地蔵さまのそばを猫が歩いている。白地に鯖模様の入った猫だ。自転車から降りた私をまんまるの目で見とめたものの、とくに警戒する様子もなく、距離を保ったまま民宿の敷地に歩いていった。きっと可愛がられて育った猫なのだろう。スマートな綺麗な猫は、知っている誰かに似ている気がした。

ちょっとほっとして、今度は漁港の町の中の坂道を下っていく。降り切った先はどん詰まりの海で、間口漁港の看板があった。漁港の奥、岬の突端には神社の赤い鳥居がみえていた。帰ってきた船がゆっくり動いている。漁港には使っていない船があって、その間を猫のような生き物が走り去るのを見た。動きが高速すぎて模様はよく分からなかった。港は春の陽射しをたっぷり受けて、猫が過ごすにはとても良い場所に違いなかった。

坂道と漁港で、思いのほか時が流れてしまった。電動自転車を駆動させ、はるかなる坂道を辿り、私はもと来た道を引き返していった。海岸沿いに戻って走っても、みんなの背中はいっこうに見えなかった。iPhoneを見ている余裕もなく、足も止めずに走りに走った。とうとう、メンバーの誰にも合わないまま、はじめに渡った交差点に着いてしまった。みんなは、とiPhoneで確認すると、すでに預けた荷物を受け取りに行っている。私の1時間の自転車旅は、ここで終着点を迎えた。三浦海岸の交差点からは、トンビが悠々と飛んでいるのが見えた。
レンタサイクルの受付に戻ると、早かったですね!と声をかけられた。電動自転車はかなり快適だった旨伝えて、私はみんなのところに合流した。様々な三浦の景色を見せてくれた自転車は、今度は誰とどんな風景に出会っていくのだろう。無造作に駐輪した赤い自転車を振り返りながら、また自転車旅がしたいなと思った。


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