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5.「メイドインローカル」に思いがいたるまで

僕がなぜ「メイドインローカル」に思いがいたったのか。
単に、面白そう、とか、地方創生が流行っているから、とかではない。

当然、近年のインバウンド観光客の盛り上がりや、2020年の東京五輪、
さらには大阪万博(現時点では開催は決定していないが)、カジノ法案、
といった「インバウンド」の需要は魅力的だと思う。

そのためか、
「メイドインローカル」の話をすると、多くの人が
「ターゲットは外国人?」とか「中国語のサイトにしたほうがいいよ」と
口々に言う。
それは当然のことだし、将来的にはそうしたい、と思ってはいる。

でも、
スタートは「ターゲットは外国人」とも思っていなかったし、
「多言語化サイト」も考えてはいなかった。


僕は兵庫県西宮市の出身だ。
甲子園球場が徒歩圏内(といっても15分くらいだが)の街で生まれ育った。
甲子園球場から浜風に乗って聞こえてくる歓声や応援歌は
タイガースの誰が打席に立っていて、さらにヒットを打ったのか、アウトになったのかも
はっきりわかるほどだった。
全国的に有名な「甲子園」のお膝元で育った僕は、
たまたま父母がそこに居を構えただけで僕は何の努力もしていないけれど、
なぜか「甲子園出身」という誇りを持っていた。

中高と神戸の学校に通い、
1年の浪人を経て、大阪の大学に進む。
浪人時代、大阪梅田のランドマークの一つ、「スカイビル」が立ち上がっていくのを
十三にある予備校を抜け出して、淀川河川敷から見ていた記憶がある。
「大阪って、ヘンテコな建物作るよなー」と。
大阪人の気質をバカにしてそう思っていたわけではない。
むしろそのヘンテコな建物を作りきる大阪人が誇らしかった。

社会人になると、初任地は鶴橋だった。
焼肉で有名な鶴橋である。
近鉄鶴橋駅、JR鶴橋駅は、平日夕方4時ごろからホームに焼肉の匂いがただよい始める。
着任当時は実家から通っていたが、ほどなく東大阪の社員寮から通うことになった。
その社員寮からは近鉄電車で通うことになる。
近鉄鶴橋駅の会社に近いほうの改札で降りると、そこは鶴橋の市場のど真ん中である。
改札すぐは乾物屋が並び、鰹節のいい香りが漂う。
しばらく行くとキムチの名店があり、酸味を帯びた独特の香りが周囲を席捲する。
さらに進むと肉店、鮮魚店が並ぶブロックを経て、市場を抜けて会社に到着する。
これぞ鶴橋、というカオスにいるこの感覚は嫌いではなかった。

それから鶴橋・堂島・難波と大阪で勤務すること9年の後、
東京へ転勤を命ぜられる。2006年のことである。

東京生活は8年と長いものになった。
東京生活、と言っても会社は東京のど真ん中とはいえ、住んでいるところは千葉だったけれど。
兵庫県出身ではあるが、学生時代と若手サラリーマン時代を大阪で過ごした僕は、
東京ではわかりやすく「大阪人」で通した。
嘘みたいな本当の話として、「甲子園は大阪府だ」と思っている人が意外に多く、
「甲子園は西宮にあって、西宮は兵庫県なんです」と説明するのが面倒になっていた、というのもある。

東京時代、本気で怒ったことが1度ある。
ある同僚(横浜人)が昼食の会話の中で、
「一平さんてさぁ、関西弁、直さないの?」
と僕に聞いてきたのである。
僕の怒りに火をつけたのは口ぶりでもその同僚が嫌いだったからでもない。
むしろその同僚は優秀で後輩ながらとても頼りになり、当然その怒ったあとも懇意であるのは付け加えておく。
原因は「直さないの?」という一言である。

「『直す』ってのは、間違っているものを正すことであって、
 関西弁のどこに間違いがあるねん!東京弁が正しくて、大阪弁が間違ってる、ってのか?
 俺が俺の気持ちや考えを正しく表現するのに大阪弁を使ってなにが悪い!」

みたいなことを言ったと思う。
同僚はそれを聞いて、
「出たよ、一平さんの愛国心が」
とのたもうたわけだが、当然、
「愛国心があって何が悪い!お前も横浜を「否定」されたら腹立つやろ!」
と返したと思う。
だが、同僚も頭の悪い男ではない。すぐに謝罪があり、以降はより懇意になり、このエピソードは彼と会えば笑い話として昇華されている。

そんなこんなで8年を経て、大阪に転勤となり、帰阪を果たした。
と思った1年半後、岡山営業所に転勤となる。
そして岡山での2年を経て脱サラし、今に至る。

東京時代、ふと目にした「大阪検定」を受けてみようと思った。
住んでいるところは千葉県市川市だったけれど。
当時、大阪検定1級に合格すると、大阪府立大学の非常勤講師だったか、客員講師だったかに希望すればなれる、
と書いてあったと記憶している。
実際そうだったのかは、今はあいまいなのであるが。
会社辞めて、大阪に帰って、大阪の歴史や伝統や文化を教える、なんてのもいいな、と思って
軽い気持ちで受験を決め、テキストを買い、勉強を始めた。
当時の大阪検定の規定は、受験初回は1級を受験できず、受験するには2級に合格しておかなければならない、
というものであった。
別に急ぐわけでもないし、というのもあり、まずは2級と3級を受験することにした。
3級は公式テキストをしっかり勉強しておけば合格できるレベル。
2級は公式テキストだけの知識で合格するのはやや厳しい、というレベル。
軽い気持ちで勉強をスタートしてみたが、これが知れば知るほど面白い。
3級レベルではあるが、
道頓堀を整備したのが「安井道頓」、心斎橋を架けたのが「岡田心斎」なんていう、
当たり前に知っていることをちょっと掘ったような知識がわんさか出てくるのである。
知識というか、雑学を得る楽しさから、ついつい深く勉強してしまい、
2級、3級ともに高得点で合格する。

2年目、ついに1級受験となるのだが、
2級の試験で「80点以上を2回」取ると『準1級』がもらえる、と知り、
1回目で80点を超えていた僕は、保険とばかりに2級も受験することに。
2年目の勉強では、雑学レベルの楽しさより、知識レベルの楽しさになってくる。
その年の出題の主要テーマが大阪の近代建築だったのだが、これがまた興味をそそった、というのもある。
東京駅を設計した辰野金吾が携わった中之島公会堂が大阪モダン建築の最高峰であるが、
その周辺に点在する名建築も実際に見て回り、大変な感銘を受けたものだ。
結果、1級は惜しくも合格点から1点足りず不合格となるものの、
2級は80点を上回り、準1級の称号を得るに至るのだ。
合格通知書類には、プラスチック製の「2級」の認定カードと、
「準1級」と印刷されたシールが入っていた。
「シールかい!」と人知れずつっこんだが、
準1級取得者が専用カードを作れるほどいないくらいレアである、という紛れもない証拠である、
と今は前向きに解釈している。

以降、大阪検定を受験することはなかった。
1級を取れなかったものの、準1級なんていうレア、かつ話のネタになる称号を手に入れてしまったものだから。

ここでの大阪を知ることが「メイドインローカル」に至る萌芽であったことは違いないが、
確信を得るに至っていない。
事実、準1級を取ってから、5年もの間、サラリーマンを続けているのであるから。

おそらく、最大のきっかけは岡山検定の受験である。
2016年に岡山に転勤となり、単身赴任していた僕の休日の日課はは図書館通いだった。
部屋から徒歩15分くらいのところにあったというのもあり、
当時の仕事柄、マーケティング関連、デザイン関連、IT関連の本を暇つぶしに読んでいた。
ある日を境に、その図書館で読む本が変わることになる。
そのある日とは、会社の同僚から「岡山検定受けませんか」と誘われ、岡山検定のテキストを書店で買ったその週の土曜日である。
その同僚は僕が大阪検定準1級という話を聞いたのもあり、ご当地検定に興味を持ったのか、僕を誘ってくれたのである。

岡山はほぼ縁のない土地であった。
大学時代、親友が岡山大学に通っており、一度遊びにいったきりで、
着任の日は2度目の岡山着地、であったくらいなのだから。
でも、テキストもあれば過去問題もある。図書館も近い。
営業車で毎日外回りをしていたおかげもあり、土地勘はある程度できてきた。
そして、雑学を得る楽しさが再び、だったのだ。
当然のことながら、合格し、博士という称号を得た。誘ってくれた同僚も合格した。
試験当日、合格を確信した同僚と二人で、打ち上げと称して飲んだビールはうまかった。

ここまで、どこがきっかけになったのか、というのはわからないだろう。
岡山検定の勉強で最も興味を持ったのが、
「知らなかった地場産業」だった。
セトモノ、の代表選手、備前焼は知ってはいたが、
倉敷市児島のジーンズ、高梁(たかはし)のベンガラ、その他諸々。
その地域がたどった歴史や、独自の文化の醸成、さらには激動の時代への挑戦、などの
秘話や悲話、こぼれ話。
何かが生まれるときに必ず物語はあるのだが、
生まれるだけではなく、成長するときも、変革があるときも物語はついてくる。
それに気が付いたのである。

岡山に着任して間もないころ、課長と一緒に営業車で岡山の市街地を回ったときの一言も大きな発見の助けになった。
「大阪や東京では見たことのない、『岡山資本』の会社の看板がたくさんあるから、やっぱり街の色がちがうやろ」
と。
そうなのだ。
東京や大阪のような大都会とはまた違う、岡山経済が存在することに気づかされた。
それは岡山が「地方」ではなく、一つの「都市」であることの証明でもあると同時に、
独自に発展を遂げた「誇るべき地方」である証明でもあると。
その「地域」の底力を痛感させられたのである。

これらの岡山で得た気づきは、
地域=ローカルの力とその誇りをみんなにただ知ってほしい、という思いとなる。
そして、
ご当地検定で得た知識・雑学を語ることは非常に楽しい、と自覚したことは、
物語=ストーリーを語る喜びをみんなに実感してほしい、という思いになる。

僕は関西弁を話すことに何の恥じらいもない。
自分の生まれ育ったローカルの言葉は間違っていないから。
だから、日本各地のローカルで生まれ、育ったものは、
きっと誇り高きプロダクトに違いない。

そうして、僕の中に「メイドインローカル」という言葉が生まれていき、
今に至るのだ。

ローカルはただの「地方」という意味ではない。
僕が思うローカルは「物語に支えられ、彩られ、成長し、変革してきた地域の誇り高きスピリット」という意味である。



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