日記 12月10日

 小説が書けないので、とりあえず雑文から始めることにしました。創元SF短編賞と百合文芸4の内容をどうするか、現在悩んでいます。多分、去年も同じことで悩んでいました。冬になると途端に頭悪くなるので(元がいいとは言ってない)冬眠とか、避寒でも検討してみたらいいと思う。「雪国」とか昭和の文豪らしく、逗留にでも行きたい(旅館で原稿用紙を書き散らして、それを掃除されたので怒った小説家は誰でしたっけ? 太宰のような気がしますけど……)川辺に並び立つ旅館を横目に、山を登って、紅葉でも日永ながめる生活がしたいなあ。不労所得。

 間違えました、閑話休題(オール閑話である)。
 つい一月ほど前に、保坂和志さんの「小説の自由」を読み終えました。例のごとく、読んだ先から内容を忘れてしまったのですけど、たしかその中で、文体というのは文章の長短、剛柔の特徴のことをいうのではなく、その文章の書き手特有の思考形式や感性の癖というべきものが表れるのだ、という意味のことを言っていて、最近は自分の文章、ひいては思考の形みたいなことをよく考えます。

 どういうことかというと、アスリートの身体の動かし方にそれぞれの癖があるように、小説家(文筆家でもなんでも)の文章にも同じように固有の癖というものがあるということ(脳に電極刺して鬱を直す(治すとは、意識的に区別してます)ような物質的な精神観が最近流行しているように感じます。が、ここでぼくが言っているつもりなのは、そういうことです。バットを振るときに肘を開く癖があり、その癖はかつて受けた死球を意識しているから。という分析と同様に、文章のつながりのパターンというのは、脳神経のつながりに起因している)。

 話を戻します。文章には書き手の思考形式を反映した固有の癖・パターンがある。それはシナプスのつながり方と同様に、人それぞれに特徴があって、同一のものはない。そう考えるとき、どうしても自分が書く文章の癖に囚われてしまって、上手く書けないなあ、と最近は悩んでいるのです。というより、もっと直接に言うと、自分が書く小説に飽きてしまった。

 自分は元から注意力散漫な気がありまして、一つのことに集中するというのが苦手です。小説を書くのも、一時間か二時間ほど続けると、次の文章が浮かばなくなってきます。さらにその上、頭が疲れているときに小説を書くものだから、文章があっちこっちに飛んでいく。あれに注目したと思ったら、次には、こっちの文章を書いている。なんてことがありました。最近「群像新人賞」に投稿した小説は意識的にそういうやり方を徹底したつもりなんですけど、結局は自分の体調によって、そう書くしかなかった。で、そういう滅裂な文章を書き続けた弊害として、文章の下手さに磨きがかかりました。複文での人称のずれや、この文章でも顕著なです・ます調とだ・である調の混交。もちろん、それが絶対にダメというわけではないですけど、小説内ではそれらが効果的に配されていないと、読みづらくてたまらない、と。

 文章というのは基本的には一本の線なので、つらーっと読んでいけるのが望ましいかな、とひとまずは思うのですけど(保留付き)今のところ、自分の小説にそういった一貫性を持たせられない、持ってこれない。

 と、ここまで書いて、似たような内容を前にも書いたような気がしてきました。こういうのを進歩してないというのか、自分にとっての重要なテーマであると考えるべきなのか。あるいは、自分の悩みを言い表す語彙が少ないのかもしれないですね。

 まあ、そんな感じで終わりにしようと思います。

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