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未分化・塊・カオス理論

 突然だけれど、ぼくは未分化という言葉が好きだ。

 古事記の冒頭で「天地いまだ分かたれず」という言葉があったと思うが、未分化と言う時、ぼくが想像するのはつまりそういうものだ。或いは、ビッグバン以前の宇宙の混沌、という方が通りがいいだろうか。

 そして、これは石原千秋さんの言葉だが、「解釈の多様性を楽しむ芸術の一つである文学」も、またぼくにとって混沌であり、一塊の土塊である。

 それは、子どもの頃あきれるほど憧れた、土の中から宝石を掘り当てる玩具に似ている。中には砂金の塊や宝石の欠片、恐竜の化石が隠されており、付属の木のスコップで砂を突き崩し、それらを探し出す。
 だが、それも所詮こどもの玩具であり、中に価値のある何がしかが入っている保証はない。宝石も化石も、プラスチックのイミテーションなのだから。

 或いは、こんな話がある。昔読んだ、伊坂幸太郎の小説でカオス理論がこう紹介されていた。

 「ある時、男がミキサーを使い、ミックスジュースを作った。それがあまりに美味だったので、男は次の日も、同じ材料を使い、ミックスジュースを作ったが、今度は満足する味には仕上がらなかった。」

 まるで同条件下で、ミックスジュースを造り上げることができたという風に人は錯覚するが、その実、変化し続ける現実の中で、全く同じということはあり得ない。それは湿度であったり、気温であるかもしれないし、公転周期のわずかなずれ、材料に選んだオレンジが、枝の先に出来ていたか、根元に実っていたか、という違いによっても、味の違いは説明できてしまう。

 ぼくが語りたかった二つの寓話は、そのまま小説へと転化することができる。

 小説とは一つの土塊であり、そこを読者はミミズのように、またモグラのように、そして深い知識を持ったものは、考古学者のように掘り進む。掘削方が多様であればあるだけ、掘り出せるものも千差万別である。あるものは金塊を手にするだろうし、また別のものは何も得られないかもしれない。

 同じテーマ、同じキャラクター、同じプロットを用いても、作家の調子次第で小説は千変万化する。また、不変であるはずの一冊の文庫本であっても、読者のコンディションによって、その物語は姿を変える。ある時には彼、彼女を慰めたストーリーも、また別の時には、彼らを傷付けるかもしれない。

 小説とは畢竟、そのような不気味な塊でしかない。絶えず、鼓動し蠕動する化け物。姿なく、虚空に漂うエクトプラズム。信じるものに試練を与え、生贄を欲する土着の神。

 ならば、そういったある種の混沌である小説を生成する作家とは、過去から流れ着いた塊を、右から左へとリレーするフィルターに過ぎないのだろうか?

 しかし、ここには一つの救いがある。

 それは、作家には一本のレールを小説に敷くことができるということだ。400字詰め三百枚、12万文字、或いは6000行の文章は、読者に対し、小説の読み方を強制する唯一の方法である。

 夏目漱石の「坊つちゃん」は勧善懲悪の物語と読まれることが多いが、それは何故か。その理由は語り手である坊ちゃんが、そのように語っているからにすぎない。

 彼は松山の学校で赤シャツと山嵐の政治闘争に巻き込まれたにすぎず、その決着は、赤シャツの勝利に終わる。
 坊ちゃんと山嵐は学校を去り、うらなりくんは左遷させられる。一方、赤シャツは学校に残り、その後マドンナを手に入れるのだろう。

 「坊つちゃん」の物語とはその程度の内訳であり、赤シャツという悪を懲らしめたというのは、彼の強がりか、あるいは勘違いにすぎない。

 小説とは、幾千もの文章が連なる奇妙な物語だ。そこで、作家がするべきことは語り、騙ること。それは金塊への道を指し示すことであり、ミックスジュースのレシピを書き残すことなのかもしれない。

 だから、小説家はそのようにして、自らの小説の面白さを知らしめる。

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