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掌編 「コーヒーが飲めない」

 夢の中では、ハルおばさんは私と同い年の中学生だ。スカーフの曲がったセーラー服を着て、背中まである長い髪。髪は手入れをしていないからいつもボサボサ。綺麗な緋色の毛先は櫛を知らず、風も雨も枝葉だってくっつけて、ハルおばさんは無邪気に駆け回る。
 犬か、こどもみたいに駆け回って、私を置いていくくせに、点みたいに遠くなるとこちらへ振り返って、大きく手を振る。
 はやくおいで、ナズナ。
 それでようやく、私はこれが夢だと悟る。ナズナはお母さんの名前だから。
 私は、ハルおばさんの元へ駆けていくお母さんの背中を見送って、ゆっくりと目覚めた。
 リビングへ下りると、カーテンを閉めたままの薄明の中、ダイニングテーブルに腰掛けて、ハルおばさんがコーヒーを飲んでいた。
「スズナ、おはようっ」
 いつも変わらず弾む声が、ハルおばさんの背中越しに聞こえた。ハルおばさんには見えていないはずなのに。
「どうして、いつも私だって分かるんですか?」
 くるりと回って、ハルおばさんは椅子の背もたれに脚を乗せた。
「入り口で立ち止まって、こっちを見てるのは、いつもスズナだよ」
 それに足音も、匂いも違うよ、と指を折り、特徴を数える。歩く時の衣擦れの音、空気の震え方、ナズナが近くに来ると少し乾いた感じがして、スズナが来ると日向に出た時みたいな感じ、と。
「そんなこと、よく分かりますね」
「スズナが産まれた時からいっしょだから」
 全然、意味の通じてないことを、宝石の割れるような笑顔で言った。
 けれど、実際のところ、お母さんよりハルおばさんの方が、私のことをよく見ているのかもしれない。私のお母さんは、いい母親ではなかったみたいだから。私の面倒は、いつもハルさんが看てくれた。
 それでも、書斎で本に囲まれているお母さんは、とても幸せそうで、それだけで満ち足りた顔をしている。
 お母さんは、一つのことに集中すると周りが見えなくなるから、誰かの助けが必要なんだ。私でも、ハルおばさんでも。
「スズナ、ぼーっとしてる」
 そう言って、ハルおばさんは笑った。
 眩しい、と思った。ハルおばさんの背後のカーテンが、雲を払うように光を増した。静謐で透き通った朝の時間が、ゆっくりと溶け出していく。
「スズナもコーヒー、飲む?」
 カップを傾けると、ハルおばさんの顔は湯気で見えなくなった。
「飲めないの知ってるくせに」
「私も、スズナと同じころは飲めなかったよ」
 ハルおばさんは、やってごらん、とは絶対に言わない。ハルおばさんが言うのは、二人が私と同じ歳だった頃の話だけ。できたこと、できなかったこと、褒めるのも頑張れって言うのも、お母さんとハルおばさんが通ってきた道の上の話をする。
 だから、私は不安になる。このままでいいの? 今、どれくらい二人から離れてしまっている? 元に戻った方がいい? それとも、このまま二人の知らない道を行く?
 ハルおばさんは、ただ見守ってくれている。ここだよ、って手を振りながら、じっと私が歩いていくのを見つめている。その視線を感じる。
「苦い……」
「ミルクと砂糖は?」
 いつの間にか、ハルさんが私の隣に立っていた。身長は、まだ届かない。ハルさんはカップの中の黒い液体をじっと見つめた。
 何も映らないからっぽの目。だから透き通って、宝石みたいに見える。何でも子どもみたいに吸収して、閉じ込めてしまう光の牢獄。それが、ハルさんの目なのだ。
「ミルクも砂糖もいらないんです」
 だって、私はあなたの隣に立ちたいだけだから。
「どうしたの?」
 身体の奥で火が点くのを感じて、目を逸らした。
「何でも、ないです」
「スズナ、顔真っ赤」
 冷たい指先が、頬に当たった。見上げても、ハルさんの顔は逆光で見えなかった。ただ、光の渦巻く瞳が、そこにはあった。
「好きです、ハルさん」
 彼女は少し驚いて、ゆっくりと笑う。
「私も好きだよ、スズナ!」
 屈託のない笑顔に、眩暈がした。コーヒーのカフェインのせいかもしれない。
「初めて会った時から、スズナは私の一番の友達だもん」

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