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「パープル・ヘイズ」の消えるとき

 墓守からIDカードを受け取り、事務所を出た。朝から降り続いていた雨は勢いを増していた。会いに来ると、いつも雨なのは昔から変わらない。
 休息日ということもあって、人影が広い墓場にまばらに見えた。花を供え、祈りをささげる人たちの前には空中に投影された故人のホログラムが浮かんでいる。それらは生前の記憶を再生する映像に過ぎないが、見る人を敬虔にする。ここに来れば、彼らに会えるのだ。

 私は外套の襟を立て、墓場の端を目指す。背の高い松林《パイングローブ》が枝葉の濃緑を滲ませて、雨の色を濃くしていた。墓の場所を選んだのはあいつ自身で、あいつに会いに来るたび、私たちは足を棒にしなければならない。死んでまでも、私たちを試すような態度に怒ることができたなら、私はここにはいないだろう。ほかの友人たちは、みんな通うことをやめてしまったし、死んだ友人に苦労をしてまで会いたい、などというお人好しなどいないのだ。

 ポケットに突っ込んだ左手に、煙草の箱の角が当たる。キヨスクで買い慣れない煙草を選ぶのにも、すっかり慣れてしまった。もう十年の付き合いになる店員は、私が顔を出すと、アメリカンスピリットターコイズの、美しい水色の箱を差し出してくれる。どうせ、火を点けるのは一本だけなのだから、毎回新しいものを買わなくてもよいはずなのに、キャビネットには美しい箱が積み上がり続ける。

 Zの看板が見えれば、行き止まりだ。私は角を曲がり、まだ歩く。この辺りまで来ると区画には空きが多くなり、滅多に人もいない。私はアメスピに火を点ける。その有害な煙は私の肺を確実に傷付けるが、そうしなければ、火は点かない。私もまた自傷しているのだろうか? あいつにとっては代償行為だったに違いない。母親が家を出ていった次の日、あいつは父親の煙草を盗んできた。フィルターに吸い付き、煙を吸いだす姿は、まるで赤ん坊みたいだった。

 どこにでもある墓石の前に、私は立ち止まる。それは墓場に何百、何千とある何の変哲もない石だ。そこに刻まれている名前が、私をここへ縛り付ける。私はあいつがそうしたように、煙を思い切り吸い込む。葉っぱの焼き切れる、ちりちりという音がして、舌の上にまろやかな煙がまとわりついた。それをすべて吐き出す。墓石に吹きかける。用の済んだアメスピを指で弾いて、あいつにくれてやる。そして、それを私は踏みにじる。

 あいつは、あいつのホログラムは私の前に現れない。この下に、あいつは眠っていないんじゃないかという妄想が浮かぶ。私があいつの顔を忘れてしまったから? それとも、私に会いたくないとでも?

「十年経ったよ。もう忘れてもいい頃だよな?」

 どっかで、あいつは死んでないんじゃないかって、思い続けてきた。だから、ホログラムが現れないんだって。そんな期待にすがるのも、今日で終わりだ。

「私のために、もう一度、死んでくれ」

 ホルダーからグロッグを取り出す。雨は強くなる一方だった。雨音に包まれて、何も聞こえない。
 安全装置を外し、引き金に指をかける。

「愛してた」

 墓石にひびが入る。薬莢が転がる。耳鳴りが余韻のように響いた。

「結局、会いに来てくれなかったな」

 私は、ターコイズを墓前に供えた。
 帰り道、キオスクに寄って、スニッカーズを買った。袋を裂いて、一口かじりついたとき、懐かしい匂いがした。あいつの部屋の香り。それが、私の手に沁みついた煙草の臭いだって気付いたのは、二口目を頬張ったときだった。

 結局、たった一本のスニッカーズを食べ終わるのに、長い時間がかかってしまった。

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