BFC2 感想 Fグループ

「馬に似た愛」  由々平秕
 人の知覚は絶対である。主観が主観であることは揺らがない。だから、同じ世界に生きながらも、ぼくたち人類は並行世界を生きるが如く生きている。
 人類の意識、知覚を統一しようという向きは、文芸によらず、何度も繰り返されてきたし、今も繰り返している。したがって、ある詩人の言葉による世界の再定義とは、革命めいている。それは夭折した革命であるからこそ、ぼくらは深いかなしみをもって、安全圏から眺めることができる。

「どうぞ好きなだけ」  今井みどり
 「ご自由に」の解釈は、それこそご自由に、いくらでも。
 大工道具の数々を眺め「職務質問」という語が真っ先に出た時点で、作品の方向は定まってしまった。もしくは、「職務質問」がジョークになり得る職場だから、ああいったことになってしまったのだろうか(言うまでもなく、金槌はくぎを打つための道具であり、また道具であるために、暴力装置にもなり得る。道具をいか様に使うかは、使う人間の人間性によっている)。
 と考えると、事の顛末は単純だ。より深く、職場に順応していたものほど暴力に巻き込まれ、蚊帳の外にいた新人はロッカーを破壊するだけに留まる。痛快。

「人魚姫の耳」  こい瀬 伊音
 「孵るの子」同様に、作品以上に、作品から連想されるものに引っ張られてしまう為に冷静でいられなくなる。

 あらゆるコミュニケーションは暴力である。性的コミュニケーションは特に。
 現実ではハラスメントをなくそうと様々な配慮の工夫が流布しているが、コミュニケーションの可否は事後的であるため、配慮は無限後退を余儀なくされ、ついに配慮の形を決定することはできない。
 本作では、コミュニケーションの暴力性は二回、示される。まず、冒頭のまぐわいの描写。つぎに、善意によってなされた耳のおくりもの。どちらも、良かれと思って行われた好意であろうが、受け取られ方は全く同じ。それは自分に向けられた暴力だ、と解釈され、終わる。同じ穴のムジナではないか?

「ボウイシュ」 一色胴元
 個と全体、意志の統一について。
 争いは絶えず、殺し合いは輪廻の果てまで続き、人間は人間であることをやめたかに思える。獣を、人と切り離し、理性の側に置こうと試み、やがて失敗する。
 人は戦争をやめられない。小さないさかいから、終末戦争に至るまで。
 だから、人間は悪である。戦争を続ける限り、人は悪の側に立つのだ。
 というのが、世紀末ごろから世間を覆っていた人間観ではないだろうか。世紀末、人が滅びる。なぜならば、人間は悪だから。
 では、戦争をやめるには? ――意思を統一すればいい。崇高な一つ、理念に向かい、人間が一つになればいい。
 だが、それは未来に向かってではない。今を生きる人を不平等にするから。だから、理念は過去へと目を向ける。死者が語る。復讐を、平和を。

「墓標」  渋皮ヨロイ
 分かりません。ごめんなさい。日を改めて、読んでみます。

【11月16日 追記】
 姪の世話を二か月みただけの拙い経験からの話で申し訳ないが、子どもと過ごす日々というのは、なぜだかやたらと秘密が増える。子どもは禁止や制約の多い生活をしているからかもしれないし、単純に子ども一人分、人間関係がややこしくなるからかもしれない。しかし、秘密の種類も様々で、はじめての○○の目撃者になったりだとか、寝る前にアイスを二つたべたというくだらないものであったりする。……ああ、それと、ある国の首相を一緒に庭に埋めたりだとか。
 それにしても、子どもとの生活は案外、孤独である。社会とのつながりが薄くなるという以上に、そういった秘密をきちんと共有できているのか、という点に不安が残るからだ。子どもは幼く、まだ未発達であるように見えるため、まるで自分一人が秘密を抱えているように感じられる。
 だから、本作の最後に、共有した秘密が子どもの方から意味づけられた時の安心感が、子どもが嫌いだった卵料理を克服した安堵感と共に語られる。

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