日記 2月4日

 朝あまりに早く起きすぎたので、トリコ無料分を読んでいたら、活動開始が十二時からだった。ほかには野崎まど「小説家の作り方」を一昨日、読み終わったり、アオアシ9~21巻を読み直したりした。

 昼ご飯を買いに行くついでに市販の林檎(158円)を買って、昨日の林檎と食べ比べたら、明らかに市販品の方が味がスカスカで驚いた。一口目かじりついたときの果汁の密度みたいなものが違う。香りは昨日書いた通りなのだけど、嗅ぎ比べたときに濁りが少なくて、味よりもこちらの方が違いが顕著だった。より熟成されているというか、円熟味があり、すっと胸の中に染み込んでくる香り。
 とはいえ、何か勘違いしていたようだというのは分かった。林檎は結局、林檎の味しかしない。もっと別の何かを期待していた自分がいた。今回食べたのは、林檎の味の中でも上質なものであったけれど、林檎の味という点で自分の想像を超えるものではなかった。それが今回の結論だ。

 味覚に限らないけれど、自分の物事の基準はどうしても相対的にしか判断できないらしい。小説なり映画なりでもそうで、基準値を作ってからでないと、それぞれの作品の評価ができない。そのうえ、80点を超えるもの同士の優劣が区別できなくて、何もかも関係なしに傑作フォルダに入れることになる。傑作の上の、大傑作というランクも自分の中にはあるけれど、せいぜいその二段階でしか評価できないのは、いわゆる解像度が低いと言わざるを得ない。
 けれども、80点以上の作品は何だったかな、と思い出せない記憶力の方が問題なのだけれど。

純文学のナゾを解け~酒場で書き手に色々聞いちゃいました 第2回 小説の主人公はいつも「小説家」になる? | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス

 まったく話は変わるけれど、この対談記事を読んでいて、純文学を一番楽しむ方法は、純文学を書くことだ(正確には、純文学を書く人の中に入って、話を聞いて、小説を読む)と話されていて、これは何事にも通じる話だなあと思った。

 今回の食事の話に近付けると、ぼくは一月ほどだしをひいて料理していた時期がある。だしの香りは揮発性が高くて、不手際なぼくの腕前では食卓に並ぶ前に風味が飛んでしまうので、諦めて調味だしに戻したのだけれど。
 閑話休題。
 だしをひいている間は、外食に出ても、このだしは何のだしで、どのくらいの塩味で、どの程度甘みがついているだろうと研究する癖がついた。美味しいと思っただしはそれを真似られるように覚えておいて、家で近付けられるか試してみたりもしたのだけれど、これがなかなか楽しい。ぼくの家の煮物の味付けはかなり甘めで、黒砂糖とみりんと両方を入れる。ただ比重としては塩味の方に傾いていて、甘め一辺倒の煮方だとあまり美味しいと感じない。
 そういう自分の好みと外で食べられる味の二つを持っていると、単純に選択肢が増える。やっぱりぼくの腕前では大したものにはならないのだけれど、その日の主菜・副菜にあわせて、煮物なりだしなりの味付けを変えてみよう、と試みるときの豊かさは格別のものがある。
 で、この豊かさは本格的な料理レシピを調べるだけで簡単に手に入れられる。ひと手間かけられている料理は味に深みが増す。ぼくはきちんと下ごしらえされている料理に敬意を感じる。それはぼくには思いつかないことだし、想像を絶しているからだ。そして、そういう観点は自分で料理をしてみるまでなかった。気付く以前の自分は、美味しいものをどう美味しいと感じていたのか、今では分からなくなった。
 ぼくはひと手間が好きだ。さりげない隠し包丁が。

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