日記 2月1日 天才について

 「needy girl overdose」が非常に楽しかったという話をどっかでしたと思う。そこから関連して、にゃるら氏の書籍を二冊ほど購入した。とりあえず、これは! と思った人のことは追いかけろというのがぼくの勝手に追いかけていた師匠(?(ネットウォッチしてただけの人))の考えだったので、自分もそれに無条件で従っている。
 いまのところ「僕はにゃるらになってしまった」というエッセイ集を読んでいて、noteの一口エッセイの転載であることに少しがっかりしている。誤字ぐらい直しておいて……?(P36、末文 再開ー再会)
 とまあ、些末事は置いておき、どうして気になった人のことをとことん追いかけろと言われるのかというと、その発言者の発言を批判するには、まず彼らの思考を染み込ませる必要があるから、というのが師匠(?)の言だった。ぼくは別にそんなことに興味はないのだけれど、他人の思考を染み込ませておいたら、小説のキャラクター造形に役立つかなと思って、面白い人や面白い人の思考を集めている。

 唐突に別件の話を始める。
 ネトゲ戦記の暇な空白さんという方がいる。今はとある裁判で有名になっているけれど、元は天才ネットゲーマーとして有名だったらしい(自分も裁判の件で知って、それからネトゲ戦記を読んだ)。
 この方も、人並みならぬ能力をもっていて、固有の世界観があることが端々からうかがえる。noteの記事なんかを読んでも、自分の感性・直感を基に思考を重ねている。

 なぜこんな話をしているかというと、天才について書こうと思っているから。
 個人的に、天才というのはその人固有の世界観を持っている人のこと、と定義していて、何かに秀でていなくても、天才だなと思う人が身近にいたりする。ものすごく卑近な例を出すと、職場の誰からも嫌われているのに自信満々に振る舞い、自分は職場に必要とされている・いなくてはならない存在だ、と認識している人も、ぼくの定義では天才である。
 この定義での天才は、認知が歪んでいる、ことの言いかえともいえる。もちろん、その限りではないけれど、そこを多分に含んだ表現ではある。

 で、話を戻すと、にゃるら氏・暇な空白氏の世界観・世界認識というは彼ら固有の観方を有していると思う。ここで重要なのは、その世界観が集合知・平均値的である一般社会に通用することだ。制作したゲームの大ヒットという二人の共通点だけを見ても、その固有の世界観が他人に伝わったから、ヒットという結果を伴っているわけで、ただの天才とはわけが違う。
 先に挙げたように、天才というのは割とどこにでもいる。けれど、他人の関心を集めることのできる天才は限られていて、その違いは何だろうと思うわけだ(その人なりの考え方・感じ方は人の数だけあるけれど、それがどれだけ一般的物差しから外れているか・どれだけ受け入れてもらえるか、でその人の天才具合が変わってくる)。

 今の時点のぼくが確信しているのは、広く受け入れられる天才は自分なりのアーカイブを持っているということ。文学上の表現を借りるなら、地図を持っている。
 といっても、彼らが大衆と呼ばれる何かや一般常識に対してすり寄ったり、迎合したかというとそうではなくて、あくまで彼らなりの感性・直感に従った末の結果であるというのも重要で残酷なこと。彼らの感性には裏打ちがある。

 さあ、では凡百の並大抵のぼくはどうすればいいのだろう。彼らの武器は彼ら自身だ。彼らの感性・経験。ぼくらの武器は?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?