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掌編 「向かい合う・すれ違う」

 鏡は異界への扉だと信じられている。そこへ写るのは、まぎれもなく自分自身だというのに、人は懲りずに、こことは違う世界を望む。当然、そこではぼくという非力な存在は、今と同じように路傍の石でしかない。
 鏡を見ることに恐怖を覚えたのは、中学生の時だった。朝起きて、寝癖を直すことくらいにしか、鏡を使ってこなかったぼくは、ちょうどその頃、着飾るということを学び始めていた。新しい服を買ってきて、持っている服との組み合わせを考えては、何時間も飽きず、鏡の前に立った。
 初めは楽しんでやっていたことだったが、クラスメイトから一目置かれるようになり、コーディネートの相談まで受けるようになると、既にそれが苦痛になった。そして何より不愉快だったのは、男へと変化を遂げていくぼく自身の身体だった。
 発達の遅かったぼくは中学校へ上がっても、すぐには成長しなかった。少年特有の清々しさと柔らかさを含んだ身体は、かわいらしいと人に褒められた。
 そんな午來の身体も大人に近付くにつれ、固く、毛深く、男臭くなっていった。毎朝、鏡の前でひげが生えているのを見るたびに、自分の身体を呪った。そして、ぼくの身体と洋服の趣味が噛み合わなくなってくると、ぼくはどうしようもない感情に、鏡を割ってしまいたくなった。頭を掻きむしり、呻き声をあげる姿は狂人に近かっただろう。
 それ以降、鏡を避けるようになり、着飾るのもやめた。あの時、鏡の向こう側の世界へ来てしまったんじゃないかと考えることで、ぼくは自分を慰める。もし、あのまま、あちらの世界へ留まることができたなら、ぼくはまた違った人生を歩んだんじゃないか、と。
 そんな時、ぼくは夕美と出会った。

「私は鏡の向こうから来たんだ」
 ぼくは顔を上げ、夕美の顔を見た。ふざけているのでも、人を笑いものにしているのでもない真剣な表情は、却って恐ろしかった。しらふでそんなことを口にすることが、ぼくにとってはあり得なかったのだ。
「向こうの世界では、私と侑くんは恋人だったんだよ。勿論、君から告白してきたんだけど」
 と優越したように言う姿は、それほど不快ではなかった。ただ、
「私は、あんまり好きじゃなかったんだけどね」
 というのは、一言余計だ。こんな奴を好きになってしまった、向こうの自分へ同情する。面と向かって、嫌いだと言われ、うれしいはずがないのだ。
「でも、意外とタイプでしょう? 私みたいなの。本人から聞いたんだから」
 確かに、それは事実だった。夕美に対して、心が揺り動かされる部分はある。ショートカットから覗くうなじ、快活そうな丸い瞳、迂遠なものより、直接的な物言いの方が好みだった。
 けれど、いつか裏切られると分かっていながら、誰かを愛することなどできない。だから、ぼくはいつでも仮面の下に、素顔を隠した。

 夕美はほどなくして、一年先輩の男と付き合い始めた。彼の香水の臭いを振りまきながら、ぼくの周りから離れないのは、完全にぼくをからかっているのだろう。また、彼女がぼくをからかうだけなら、酸化した香水の臭いくらい我慢できるが、何かを勘違いした先輩が、ぼくへ殴りかかってくるのだけは、痛烈に響いた。
 夕美はぼくを憐れむように見つめていたが、からかいは止まなかった。次は、二人の写真を送りつけてくるようになり、首筋の赤い痕、乱れたシーツ、キスの瞬間。それでも、律儀に見てしまうのは、彼女が真剣な悩みを、ぼくへぶつけてくれるからだった。たとえ、傷付けられても、夕美の気持ちを切り捨てることはできなかった。
 ある夜、夕美がぼくの家を訪ねてきた。深夜のことで、玄関からの訪問ではなかった。
「窓から入ってきて、びっくりした? 向こうでは、こうやって会ってたんだよ」
 制服姿の彼女からは、いつもの臭いがした。夕美はベッドへ倒れ込んで、ふふふと笑った。
「今、嫌な顔した」
 一緒にどう? と夕美はベッドを叩いた。
「侑くん、まだ気付かないの?」
 ぼくは夕美から顔を背ける。
「私は本当に、鏡の向こうから来たんだよ。そうじゃなきゃ、知る訳ないじゃん。侑くんが鏡の向こうの世界を信じてるなんてさ」
 ぼくは夕美に手を引かれ、ベッドへ倒れた。
「おかしいよね、だって、私以上に侑くんのことを知ってる人なんていないんだよ。私が一番、侑くんの近くにいなきゃ、ダメなんだよ」
 夕美はぼくの小指を口に含んだ。
「彼が好きなの」
 弾かれるように、手を引いた。痛っ、と呟くと、夕美は切れた口の端を指でなぞった。咄嗟に謝ろうとしたぼくの口に、彼女は血は撫でた指を入れた。
「これで一緒だ」
 ずぅーと一緒。
「侑くんは、私のじゃないといけないの」
 そう言って、夕美はぼくの仮面に手をかけた。

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