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阿波しらさぎ文学賞に応募して分かったこと

 ※これを書いている時点では、推敲を終えただけで、まだ応募は完了していません。

 推敲とは何だろう、というのが長年の疑問だった。削る作業とも言われる一方で、推敲すればするほど文量が増えるという作家もいる。執筆は前座で、推敲こそが小説を書くという行為の本質だ、なんて極論も見たことがある。あるいは、原稿用紙200枚でも捨てて、新たに書き直すなんて話も。

 創作論の数だけ推敲論(?)というべきものも存在し、結局は自分のやりやすい方法を見出すしかないわけだけれど、ずっと推敲というものが苦手だった。

 というのも、何をすればいいのか分からないからだ。推敲というのは基本的には、すでに書いたものを消して、新たに書き直すという作業が主だろう。少しでも引っかかったところは必ず書き直せ、とは確か村上春樹の言葉だったように思う。

 では、初稿と二稿とどちらが優れているという判断はどうつければよいのだろう。いつだって頭の中に完成形を思い浮かべられているわけではない。理想に向かって、目の前にある文章を整えていくという作業は、むしろ物語に対する姿勢のようで、高名な物語作家たちが己を自動筆記に譬えるのは、そういう意味なのだとぼくは理解している。

 「阿波しらさぎ文学賞」は文芸作品を募集している。見てきたように書く、のとはまた別の書き方が許されるのが文芸作品だと思う。(もちろん、物語作品だって、どんな書き方をしてもいい。)

 少し話がそれた。

 つまり、そのように書かれるのが好ましいという理想を追い求めるのではなく、もっと違う方法論を、推敲に求めていた。だが、それが何なのかはよくわかっていなかった。(今も分かっているとは明言しがたい。)

 「阿波しらさぎ文学賞」に向けて、小説を書く内に、考えたのは、推敲するということは、初稿、二稿、三稿、と書き重ねていく中で、その時点の異なる自分を小説の中に織り込んでいく作業なのかもしれない、ということだった。

 どういうことか。まず、書き上げた小説は枚数規定の関係もあり、短く単純だった。(もちろん、力量不足によるもの。)書き始める前に想像していたものとは、違う方向に展開したし、書き上げたことで、自分がどんなことを書きたかったのかが、ぼんやりと理解できる程度の仕上がりだった。

 ので、二稿ではその方向性を深めていくよう、その向きに沿わない表現なり、書きすぎている無駄な部分を削ることに注力した。おかげで、初稿から二稿では文字数が減った。

 が、そこで疑問が生まれる。本当にこの方向性でいいのか、という疑問だ。なるべく陽気な感じにしよう、と思ったものの、それは初稿の語り手の文章がどこか抜けている感じを受けたから、そうしたにすぎない。この時点で、小説の完成形は迷走を始めた。もとから、理想像もないまま書き始めた小説なので、どう変えていくのか、変えないのが正解なのか、まったく見当が付かない。

 分からなくなったので、原稿をそこから一週間ほど置いた。というより、苦手意識により、推敲から逃げた。

 が、時間をおいてみると、自分の小説に対する目が変わった。とにかく、鼻につく文章に印をつけて、何でもいいから書き改めることにした。推敲の仕方はそれしか知らない。

 そうして出来上がった三稿では、自分の予期していなかった表現が表れた。その時は意識していなかったが、その一文のせいで、語り手の現在時点が揺らぐようになっていて、語りが対象から遠ざかり、ちょっと楽しくなった。これは、もしかするとマイナス要素なのかもしれないけれど。

 推敲しなおすたびに、以前の自分とは異なる視点が作品に影響する感じを覚えた。読み直してみると、そのような意図ではなかった文章が、別の箇所の文章と繋がり始める。何だか奇妙だった。すぐれた作家はこういう経験をたくさんしているものなのかもしれない。

 閑話休題。こうして幾層にも異なる時間軸の自分が介入することで、作品に複雑性が組み込まれていったような気がする。少しずつ考えの変わっていく自分が、文章という形で書き残され、それを未来の自分が精査し、修正する。もちろん、それが成功しているかは分からない。けれど、一つ分かったのは、推敲は、作品を複雑にしてくれるのではないか、ということ。

 正直言って、作品に自信はない。偉そうなことをだらだら書いてはいるけれど。でも、推敲すると少しだけ自分を好きになれる。書き散らした小説を応募して、賞に落ちても、何も思わない。ただ全力を尽くさなかった自分が嫌いになるだけだ。だから、ちょっとでも推敲が分かった気がするだけで、案外うれしいものです。

 まあ、そんなことが言いたかっただけ。

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