日記 1月31日
野崎まど「小説家の作り方」を寝る前にちまちまと読んでいる。”世界で一番面白い小説”の話が出てきて、なるほどなあと思いつつ読んでいたのだけれど、何がなるほどだったのか、いま書こうとして思い出せなくなっている。多分、小説指南的なコンセプトと小説を書くことの本質みたいなもののブッキングの話をしようと思っていたはずなのだけれど。
順を追って書いてみよう。
とある兼業作家のもとに、”世界一面白い小説”のアイデアを持った女性が訪ねてきて、小説の書き方を教えてほしい、と告げるところから物語は始まる。五万冊もの本を読んだというその女性は、けれど、小説を書くことに関して、まったくの素人なうえ、主人公の性別を決めるのにも逡巡するほどの融通のきかない人物だった。兼業作家は報酬と引き換えに小説の書き方を教えるのだが、そんななかでも彼は小説を書かなければいけない。だが、”世界一面白い小説”が脳裏をよぎり、スランプに陥ってしまう。それを担当編集に見透かされ、”世界一面白い小説”とは何かを話し合う。
というところまでが読んだ部分。作中では、読むことと書くことが”世界一面白い小説”へ至る道だとされていて、読んだ先に見えるものへ向かって、書くことで近付いていく、というルートを想定しているらしい。つまり、数多の本を読みこんだ末に、”世界一面白い小説”の姿が見えるようになり、それを書き上げるために、何万冊と小説を書き、ようやくたどり着ける。そういう話だと読んだのだけれど、うーん……。
こう書いてみると、小説指南書の内容を物語に落とし込んでいる手際に感心したようにしか思えない。もっと別の感慨があったような気がする。ちなみに、こんなことを書き連ねているのは、百合文芸がまったく進んでいないからで「小説家の作り方」の”世界一面白い小説”と自分が考える百合小説がパラレルだからでもある。
どういうことか。
いま自分は百合小説じゃない百合小説を書こうとしている。前々からジャンルを拡張していく作品、エッジ―な作品に惹かれがちな傾向はあった。ジャンル特有の構造をもちながら、構造を超越していく作品というのは、究極のところ、そのジャンルのアンチなのではないか、と思う。
「小説家の作り方」における”世界一面白い小説”は、それ以前とは何もかもが決定的に変わってしまうもの、という風に語られている(今読んだところまでの時点では)。
そういう作品を書いてみたいと思う。ただ、安易なアンチ気分でそうしたいという気持ちもあるのが正直なところで、結果つまらないものにしかなっていない。つい借りものを借りてきてしまう自分がいる。
私らしく・自分なりに・ありのままで、という言葉をぼくは信じていなくて、というのもちっぽけな自我しか持ち合わせていないから、つい他人のあるがままも矮小化してしまう。
自分にしか書けないもの・作れないものを持っているのは限られた人間だけだ。それでも、自分には自分しかないという現実に戻ってこざるを得ない。この手の話をするとき、毎度思うのは、嫌な話だということ。いまだに何も持ってないし、何を持っているのかも分からないまま。このまま死にたくはないと思う。
それだけ。
ん? 何の話だっけ?
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