感想 「透明な鳥の歌い方」

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 ポール・ギャリコの「雪のひとひら」に辟易した記憶がある。あまりにお「人」好しすぎると思ったからだった。今回「透明な鳥の歌い方」をきっかけに読み返したら、彼女は彼女なりの価値観で生きていることが分かり、辟易した記憶は自分の思い違いだということに気付くことができた。

 雪のひとひらはひとりごちました。「わたしって、いまはここにいる。けれどいったい、もとはどこにいたのだろう。そして、どんなすがたをしていたのだろう。どこからきて、どこへ行くつもりなのだろう。このわたしと、あたりいちめんのおびただしい兄弟姉妹たちをつくったのは、はたして何者だろう。そしてまた、なぜそんなことをしたのだろう?」

ボール・ギャリコ 矢川澄子訳「雪のひとひら」 新潮文庫P6・7

 物語は、透明な鳥が生まれるところから始まる。成長した鳥は翼を生やし、歌声を響かせながら、旅へ向かう。山のふもとから森を抜け、やがて畑と思しき場所へ出ると、鳥は植えられたブロッコリーやキャベツの頭の上に乗る。そこでは前世代の老人が野菜を作っていて、野菜は工場のある街へと運ばれていく。
 それらが空白の改行をはさみながら、細かく視点主を変えて、ゆるやかに繋がりながら続いていく。もしかすると視点主が変わっているというのは、読んでいるぼくの思い違いなのかもしれないと思うほどに、細かい。けれど、ブロッコリーが小さい頃の記憶を思い出すころには、それは確かなものになる。
 老人は煙で脆くなる世代よりももっと上の年代の人間だから、街で暮らす人々よりずっと健康だ。健康な彼はブロッコリーを食べる。彼には子どもがいて、ひひひひひひ孫が電話をかけてくることがある。彼は子どもたちのために野菜を作っているが、恐らく子どもたちの口に野菜が入ることはない。「となりあう呼吸」ではくだものを口にするものむずかしいのだから。

 そんな風にして、話は繋がっていく。生き物たちがことばをしゃべる。話している内容は奇妙だ。知らないはずのことを話していたり、話しているかと思ったら言葉が通じていなかったり。
 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 鳥は遍在しているということだ。
 だから、鳥が生まれたところから始まる文章は、空行を挟むたびに視点主が変わる。となりあう身体を寄せ合った、小さな鳥は色々な場所に紛れている。

 そうして少しずつ、世界の正体が明らかになってくる。
 どうして、そのように生まれてきたのだろう?
 鳥や、ブロッコリーや、街の子どもたちは。


 雪のひとひらは旅をする。山里に降り積もり、春の小川の流れに乗って、湖へ出る。雨のしずくと出会い、子どもが生まれる。そして再び川へ出て、街の水道へ押し流されて、火と戦う。家族は無事だったけれど、その後雨のしずくはいなくなり、成長した子どもたちも彼女のもとを離れていく。最後に彼女がたどり着いたのは海だった。そこで彼女は、これまでの人生を振り返る。

 そこでぼくは「雪のひとひら」と「透明な鳥の歌い方」が違うということに気付く。鳥の身体は水を纏った姿なのだ。鳥は水の身体を自在に操り、生やした翼で空を飛ぶ。そして、水が渇けば、森や畑、ブロッコリーの上に乗って、霧であったり、雨であったり、次の水を待つ。鳥の旅は終わらない。
 ぼくが想像したのは、マイクロプラスチックだ。どこまでも微細に砕かれていき、空気に舞い踊るほど小さく、軽くなった存在たち。そこに意志は宿るのだろうか。いや、宿るのだろう。霧の粒がくっ付き合う場面では、ネットワークが構築されているようにも思える。

 けれど、残念ながらぼくには鳥の歌は聞こえない。
 鳥がなぜそのように生まれたのか、という問いには、適応だとぼくは答えるだろう。鳥がそのようにしか生きられないことを不幸なことだとは思わない。鳥はなぜ海を目指すのだろう? 海へ行ってしまえば、雲や風に乗って、還ってくることになりはしないか。そういった循環から弾き出された存在だというのに。あるいは、そういう形で、鳥は生態系とでもいうべきシステムに再び参加するのだろうか。
 畑の門は閉ざされていて、雨の少ない街では鳥は身体を保てない。行けるところなど限られている。海でなら、彼らも自由に生きられるのかもしれない。「本当の海」が指しているのは、どんな海なのだろう。

 鳥がどんな声で歌うのか、聞いたみたい。

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