BFC5落選展感想 61~70

 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

 更新が遅くなりました。仕事の繁忙期と資格の試験が重なりまして、こちらに手が回らなかったのが、間が空いた要因です。読者に待たれているとも思ってはいませんが、全作書くと宣言した以上は、こうして、ちまちまと書かせていただきます。

 以下、感想です。

61、「本当の音楽」中務滝盛

 散文なのに、リリックめいていて(一行改行がそう思わせるのだろうか)リズムを生んでいるように感じられた。また、時間が一瞬、一瞬過ぎ去っていくという感覚も感じた。
 後半部分で顕著だと思うが、語り手の立ち位置が幽霊のように宙に浮いている感じで、時間を規定している何かが雲散していく感じがした(感じ、ばかりだ)。何故だか Youtube のMVを見ているようで、シークバーの見える気がした。

62、「火喰い」山崎朝日

 ファンタジー文芸のような書き出しから、幻想小説の文体を経由して、神話の域に踏み込んでいく。合間には、ヒクイの生態に関するドキュメンタリーめいた雰囲気もあり、どの文体も魅力的に読んだが、一方で、散漫な印象も受けた。

ヒクイは一般に思われているように炎にひかれて集まるのではない。神獣なのだ。彼らは人の嘆きに反応して動く。

 特に、引用部分では、ヒクイの印象が歪んだという感覚を覚えた。作中において、ヒクイは雷の火で塒を失った人に、神から与えられて生き物だ、という”神話”が語られる。それは”神話”であるから、ヒクイは人とは無関係に火を食べるのだ、と通常は理解するはずだ。天津神と国津神の争いを、異なる部族の政治的抗争と読み解くように、ヒクイと人の来歴は物語の形に整えられている、と考える。
 だが、作品はあくまでそれを事実であると扱う。その歪さは、恐らく意図されたものだと、私は思う。ヒクイと名指されて、ヒクイドリが連想されるのは難しくないことだろう。ヒクイドリはオーストラリアに棲息する鳥だ。オーストラリアでは森林火災が猛威を振るっており、その原因は地球温暖化にあると一般に言われる。今作を、そういった状況の比喩と読むことは可能なはずだ。
 そこでやはり問題になるのは、ヒクイの作中における位置だ。人のために与えられた神獣(≒天使?)、人の営みによって死地に追いやられていく生き物。その二面がヒクイという像を結んでいるのだが、上記の文体の多様さが、それに貢献していなかったのではないか、というのが私の考えだ。


63、「積み重なる想い、透けて」ほげほげ仙人

 ゲームブック的発想、という風に感じた。六枚(三枚?)の紙片に書かれた詩を組み合わせると、別の詩が出来上がるという趣向とのこと。
 書く紙片末尾の
”胸に深く刺さる 犬”
”流されていくそれ 木几”
 と読めてしまうのも計算の内なのか分からないが、勝手に面白がって読んだ。


64、「悩むよりまずはクリニック」阿蒙瞭

 この小説の一番面白くて、盛り上がる場面は、切除しようとしているものが「自意識」だと判明するシーンだと思うので、もっとそこを引き延ばしてもいいと思った。何を取り除こうとしているのだろう、という期待を裏切って、充分に楽しませてくれるものだったから、一行空白のあとがエピローグになってしまうのは、もったいないのではないだろうか?
 とくに、自意識が、脳の海馬あたりに浮揚する黒い靄、と書かれるあたりなど、ぐっと引き込まれるので、引き延ばしすぎてダメになるということもなさそうに感じた。


65、「逆迷彩蝸牛」黒谷知也

 私は静岡県東部の出身で、アカカタツムリにはなじみがある。小学校の遠足で近所の湖に行くのが高齢なのだが、その湖はアカカタツムリの繁殖地としても有名である。そんなところへ、小学生が連れ立っていくのだから、あとの展開は想像に難くないと思う。
 県外出身の母などは、帰ってきた私の服装を見て、悲鳴を上げたほどで、のちにこっぴどく叱られた。乾いたアカカタツムリの体液は、本当に血の色によく似ているのだ。

 閑話休題。
 「虐殺の文法」の文脈に連なる作品か、と思った。ウクライナやガザなどの国際情勢もあり、暴力に注目した作品が落選展でも目についた。
 ところで、小説(作品)の中の暴力には、意味のある暴力と、意味のない暴力がある、と私は思っている。意味のある暴力は、ミステリなどにおける殺人などで、暴力という事象に、内的(動機など)にも、メタ的(探偵が解くべき謎を用意する必要性など)にも、意味が与えられている。
 一方で、意味のない暴力とはそれ自体が目的となっているもので、暴力が持っている本来の性質でもある――理不尽さの表象として描出される。死というものが、無差別で、理由のない、唐突に訪れるものであるように、暴力にも同様の性質が備わっている。
 今作はそのどちらとも取れる作品になっている、と私は思う。2023年のガザでの戦闘開始が10月7日であり、BFC5の〆切が10月22日という要素を考えると、当時の読者がその点を結び付けて読むのは、それほど不自然なことではないと思う。
 その一方で、二月ほど間の空いた現在、その関係を意識せずに読むことはさほど難しくないし、時を経るごとに、上記の結びつきは薄れていくと思う。その時、今作の暴力性は逆転するはずだ。意味を示す暴力から、暴力それ自体を描写する作品へ。

 さて、冒頭の思い出話は一部を除いて嘘であるが、母は帰ってきた私の姿を見て、何か事故に巻き込まれたのか、あるいは誰かを傷付けたのではないかという懸念から、悲鳴を上げるに至ったわけだ。
 私は、友人たちにアカカタツムリの体液を浴びせられ(もちろん、私も友人たちと同様に、彼らに体液を浴びせかけ)まさに、血塗れという様相だったと思われる。アカカタツムリを潰して回り、興奮したギラギラとした目つきの私の姿は確かに異様だっただろう。
 母が、私が誰かを傷付けて帰ってきたと思い込んでも、無理からぬ話だった。そして、私の説明を聞き、安堵した母は、服を汚した私をひどく叱ったのだった。

 感想と称しながら、二次創作のようなものを書きつけてしまって、作者には申し訳ない。私が今作を読んで感じたことを、もっとよく伝える方法はあるが、敢えて、この方法を取らせてもらおうと思う。


66、「罪の装い――〈つけぼくろ〉シリーズ全レビュー」稲田一声

 読み終わって、ものすご~く嫌な気分になった。それこそ、作品が書いた「ムーシュ」を味わったように、この作品のことを、いっそ忘れてしまいたいほどに強烈な感情だった。
 というのも、今作の感情の言語化・具現化の手腕は卓越している。小説を読むよろこびの一つに、自らが感じていながら言葉にできていなかった感情が書き記されていることを発見する、というものがある(らしい)。「罪の装い」はそのよろこびを十分に味わうことのできる小説だ、と思う。これは読めば分かるし、読まなければ分からない類のものだと私は思うので、まずは読むことをおすすめする。


67、「竜を呑む」藤崎ほつま

 宝願を、どこまでも夢の中に生きている人物と捉えることができるかもしれない。彼が師と仰ぐ人物は、画竜点睛の故事でも知られる張僧繇であり、彼は南朝梁の武帝の時代に生きた人物である。一方で、宝願の生活圏にはスマホ・コンビニ・スクールカルチャーの文字が出てきており、現代であることがほのめかされている。宝願は、師や兄弟子からの冷遇に耐えている、と書かれているが、あまりに時代が矛盾している。
 これを可能にしているのは、語り手が、あらゆる事象をフラットに書き込むからではないだろうか。宝願にぴったりと寄り添った三人称は、語り手自体と宝願の境界を、巧みに行き来しているように、私には感じられた。


68、「一年、経ったら」飯野文彦

 まず、感想を書こうとして、説明文が多い、という感想が浮かんだ。だが、読み直して、必要最小限で物語を伝えているとも思った。これが、いわゆる、六枚におさめるには枚数が足りなかった、というものだろうか?
 登場人物の発言が定型的であったり、具体的な場面が乏しいなど、月並みな欠点を指摘することはできるのだが、じゃあ、それがなぜ駄目なのか、ということはこれまで考えてこなかった。
 61~70の作品は、一月前に一読し、感想を書くまでに間が空いてしまったという経緯がある。今作は、タイトルを読んだ際、すぐに内容が思い出せなかった。定型的であることや作中の視覚情報が乏しいことは、その点で不利なのかもしれない。
 とはいえ、物語の構成など短い中でまとまっていて、読んで混乱するということはなかった。どんでん返しもあり、興味をひかれつつ読み進めていくと、それに見合うだけの魅力を見せてくれる作品でもあったと思う。

 

69、「逢魔」星野いのり

 作者はBFC本戦出場作に顕著だと思うが、テーマに合わせて、作品を”俳句連作”として整える手腕がずば抜けているという印象だ。今作では、そこからさらに一歩踏み込んだ作品作りをしているのではないか、と思った。
 まず、素人講義に少々お付き合いいただく(よくある素人質問系のあれではなく、本当の素人です)。
 基本的に、俳句には季語というものがある。句の印象を良くも悪くも季語が左右するわけだ。季重なりが嫌われるのは、季語同士が持つ印象がぶつかりあり、句(の季節感?)がぼやけるから、と言われているし、”取り合わせ”や”一物仕立て”などの技法(?)も、季語のある俳句に特有の意識から生まれたものだろう。

 さて、今作の面白い点は、句それぞれに「逢魔」というテーマが徹底されているところだ、と思う。さらに言えば、このテーマが季語よりも前景化しているのではないか。季語を塗りつぶすかのように「逢魔」という通奏低音が響いているのでは、というのが私の見立てだ。

鎧より花の香のする館かな

 俳句で「花」といえば桜のこと。とはいえ、季語があまりにさりげなく、切れ字で強調された”館”が、冒頭の”鎧”と結びつき、具体的なイメージとして立ち上がってくる。また”花の香”は春の季語、春霞に代表される春の空気の中、鎧に埃の積もったような情景も浮かんでくる。
 中七では、”「花」の香” と桜の情景を、一度思い起こさせてから、香りという掴みどころのないものへと意識が移り変わっていく言葉選びが、館の外も想像させる。明るい春の昼と、薄暗い館のコントラストが言外に読み手の脳内に描き出されている。

うみどりの死ははつなつのうみのもの

「一年のうち、最も安定した気候の頃であり、語感にすがすがしさのある季語である」角川俳句大歳時記 初夏より引用
 ひらがなの中、一文字だけある”死”の字に目を引かれる。”うみどりの死”はどこか抽象的で、”はつなつのうみ”の日差しを受けて、きらきら光る波間が、まず浮かぶ。揺らぐことのない大海のイメージと、腐臭と潮の臭いの結びつき(個人的な連想だろうか?)がありつつ、ごろた場で波に洗われ、羽毛の抜け落ちたうみどりの死体、という順で情景が浮かんでくる。
 のちの、「くちなはは殺めしもののかたちへと」と対になっているだろうか。季語の持っているとされる、すがすがしさは”うみどりの死”に上書きされ、別の異質のものになっている。


70、「お帰りなさい」早高叶

 まず、謝らなければならない。私がこの作品に言えることはない。その理由を以下で説明する。感想を期待しているのならば、読むべきではない。

 はじめ「戦争」について書かれた作品だと思い、正直に言えば、反感を覚えた。しばらく間を置くうちにこれは「反戦感情」について書かれたものだと、勝手に了解することで、私が感じていた違和感に気付くことができた。
 私にとって大切なことは、”人を殺して貰った”勲章が”すごく綺麗”だということだった。
 作品に沿って読むのなら、因果は逆だ。
 ”すごく綺麗”な勲章は”人を殺して貰った”ものであるから、そうでない人にはふさわしくなく、代わりの赤い木の実が置いていかれる。
 だが、やはり私にとっては、”人を殺して貰った”勲章は人を惹き付けるほど魅力的なものでなくてはならない。戦争は悲惨なものだと知りつつ、人類が戦争をやめられないのは、戦争が人類にとって真に魅力的だから、という皮肉めいた世界観を私は持っている。
 その意味で、作中で書かれる「反戦感情」は「反戦」にとって無意味だ、と私は思う。作品の内包する価値観と、私の価値観は真っ向から対立しているし、私にそれを受け止められる度量はない。よって、私から今作に言えることはない。

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