日記 3月23日

 別に隠していたわけではないけれど、三月いっぱいで仕事を辞めることにして、今は有休を消化している。油断しているとすぐに生活リズムが崩れるので、朝の散歩と三食ごはんを食べることをとりあえずの目標にしていたわけだけれど、朝の散歩は二日で飽きてしまって、有休に入ってから今日で五日目。昼寝をすると夜眠れなくなると分かっている一方、昼寝をするときが一番幸せで、昼寝に対する抑止力が足りないことが喫緊の課題となっている。
 ところで、待ちに待った有休だというのに、二日目ですでに飽きてしまった。やることはあるけれど、やりたいことがない。いや、逆か? まあそれも分からないくらい暇を持て余している。働いている間にやろうと思っていたあれこれも、何だか手につかない。家にいるとだらだらしてしまうので場所をかえたいのだけど、行く当てもない上に、この一週間天気が悪く、気温も低い。自分が休みのたびに天気が悪く、働きに出る時ばかり快晴なのは、いやがらせだろうか。この二日の寒さで鼻粘膜がやられて、ついでに喉も痛い。春だから、三月に仕事を辞めたのに。人生ままならないものですね。

 先日、書いた「となりあう呼吸」の感想を十三不塔さんや作者の枯木枕さんに褒めてもらった。自分はどうも批評文というものが書けないらしく、「感想」と言って逃げている節があるので、褒められてしまうとどきまぎする。感想で書いた内容も論理的に破綻していると思っているし(じゃあなぜ公開している?)自分勝手に語りすぎているだろうなあ、とも思っている。では、なぜ公開しているのか、だけれど。
 世の中にはもっと下手くそな批評が溢れていた方がいいと思っているからだったりする。去年は書けなかったけれど、一昨年のBFCで感想を書いたのはそれが理由だし、「未来の色彩」で下手くそな文章を書いたのも同じ理由だ。
 ここが好き、ここが綺麗、ここが楽しい、などの感想にも意味があるとは思いつつ、出来ればそこからもう一歩踏み込んだ文章が世の中に広がってくれたら、作者も読者もハッピーなのではないだろうか。それは具体的に、ここが好きな理由はこう、とか。ここが綺麗だと感じた理由は文章の並びによって説明できる、とか。ここで言っている楽しさは有名なあの作品を読んだ時と同じものである、とか。
 感情とは別の何かで、他人と共有できる言葉があったら、より作品が広がっていくのではないかなあ。もちろん、自分の希望的観測だけれども。

 いまの社会、特にSNSは能力至上主義がナチュラルに浸透していて、無能の仕事というのは無条件で悪とされている気がする。ゼークトの組織論として有名な「無能な働き者」はSNSの大好物だ。誰もが「無能な働き者」をいかに見つけ出し、いかに排除するか、そのスマートさを競い合って憚らない。そうやって普通のハードルが高まり続けているのが現代社会で、不純物を取り除いたからといって上質なものがそこに残るのかというと、行き着く先は更地でしかないだろうと自分なんかは思う。そして、そう思うのは自分が無能の側に属しているからなのだろう。できることなら、自分のような人間でも生きる余地を残しておいてもらいたい。
 だから、下手な文章を今も書いている。ある意味で反逆だ。「無能な働き者」としてしか生きられないのなら、無能の生きられる世界を広げていくしかない。一方で、自分のような拙い文章が好意的に受け止められるのは、無能排斥の流れに便乗しているともいえるわけで、下手も数をこなせば上手くなっていき、能力至上主義を強化することにつながる。
 だけれども、下手が上手になるというのは最も基礎的な自己実現で、それを一概に否定したら世界は成り立たなくなる。世界は難しくて、複雑なものだ。

 まあ小難しいことはどうでもよくて、下手に寛容な世界がいいな、くらいの話です。それで感想とか批評が増えたら、もっと良いよね、って。

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