日記 5月29日 禍福は糾える縄の如し

 五月に就業した会社から今週、はじめてのお給料が出た。うれしい。ついでに、前職で仲の良かったひとをデートに誘って、それが昨日の出来事。今日は「ハケンアニメ」を観に行った。これはデートとは別件。

 まあ結果から言うと、何故だかその人をすごく怒らせてしまったようで(別に怒鳴られたとかではなく、雰囲気が剣呑になった程度)夕方四時ごろには解散した。久しぶりに会って、最初はすごく和やかに話をできていたと思うのだけど、目的地の水族館についた辺りから雲行きが怪しかった。どことなく態度がよそよそしくなって、それを打開しようともがいた分だけ、距離が離れていく感じだった。自分の雑談力が低いのは、それはそうなんだけど。
 帰ってきてからは、何が行けなかったんだろうなあと悩みつつ、素の自分で接していた部分が大きかった分、ダメージも大きくて(本当の自分を受け入れてもらえると信じている自分が悪い)ベッドで横になってずっとスマホを眺めていた。正直なことを言うと、結構つらかった。デートの誘いに応じてくれる程度には信頼関係があったと思うのだけど、そう思えば思うだけ、解散の時の落差が心に来る感じ。自分が対人関係で何より苦手なことって、失望される(させる)ことなんだな、ということを今更思い出した。だから、対人関係においては、何もしたくないがベースになっていたりする。それじゃただ孤立するだけなので、どうにかしようと努力はしているつもりなんだけど……。

 まあ、今週末はそんな感じでした。
 今年はじまってすぐ頃にも、似たような失敗をしていて、全然成長してない。仲良くなりたいと思った人に踏み込んでいくときの仕草が、たぶん下手なんだと思う。これは恋愛に限った話じゃなくって、もっと話してみたいなと飛び込むと変な空気になることが多い。どうしてなんだろうとずっと思っている。小学生の時から素で、友達にならない?と話しかける人間だったので、二十年近く成長してないことになる。

 前はこういうことを考えるとすぐ、死にたいと考えていたものだけど、そういう希死念慮が遠いものになってしまった。死んだら楽になるだろうな、とは今も思うけど、それよりも、今の状態のまま年を重ねていくことで、友人もいない自分が異常独身中年として生活している未来の方が、死ぬよりよっぽど怖い。そして、そういう未来がほぼほぼ約束されているわけで。世間を騒がせるニュースが身に染みて感じられないのは、上に書いた未来の実在感があまりに強いからなのかな、といま書いていて思った。 


 で、今日見た「ハケンアニメ」の話を唐突にするんだけれども、柄本佑がとてもよかった。彼が演じたプロデューサーは行城というのだけど、主人公の吉岡里穂の才能を信じて、彼にできる全力をひたすら作品に注ぎ続けるという感じで、自分はそれがすごく羨ましいし、そういう人間に隣にいてほしいのだ。
 それって信者が欲しいという意味なのだろうか。自分を認めてくれる人の側にしかいられないのなら、それは自分の弱さだよ。
 でも、望むなら「あなたのことはどうでもいいし、何だったら死んでくれても構わないけれど、あなたの作品だけは素晴らしいし、残しておく価値がある」と言われる方がうれしいかもしれない。ぼくという存在をひたすら希薄化して、才能(というものがぼくにあるとするならば)だけを愛してもらえた方が満たされるような気がする。

 これは、まったく別の欲望を混同しているかもしれない。突き詰めれば、結局は愛されたいという願望なのだし。

 となると疑問は、愛するってどういうことなんだろう、ってことで。「腕の中に誰かを抱きしめているとき、本当に抱きしめているのは自分なんだ」ということを土曜日の夜に考えた。
 じゃあ、自分ってどんな形をしているの? って話になるけれど、ぼくには自分なんてなくて、ぼくから発せられる情報(作品や蘊蓄や)にだけ価値があってほしくて、つまりは主体がないのだから愛することもできない。それは対人にかぎらず、ぼくが好きなものって自分でも分からないのだ(便宜上ぼくと名乗っているけれど、一人称はたいてい「自分」を名乗ってる)。

 自分の交友関係がうまくいかないのは、この辺りにある気がしていて、でももう五年くらい同じことを悩み続けている。何が好きか分からないから、雑談で何を話していいか分からない。ついでに言うと、他人についても同じだから、質問を投げて「他人の自分」を教えてもらうのも苦手だ。
 自分の身体の中には虚無が広がっていて、だから外からの声も響かないで消えていく。ああ、小説みたいな文章になってるな。これは日記です。書いている本人もフィクションなのか、そうでないのか分からなくなってる。文体が嘘くさい。

 普通になりたいのだ。

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