「となりあう呼吸」感想 輪郭線について

 描写の横溢する文章にたじろぎつつ読み進めていくと、意味の取れない表現に出会い、ふたたびたじろぐ。理解できなかった部分を読み直し、おぼろげなみずからの理解を頼りにさらに読み進めていく。次第に輪郭をととのえていく物語に安堵の息を漏らし、けれど、度々につまづく。つまづいた小石をうらめしげに眺める自分の姿をみる。

 描写とは異化表現をたぶんに含んでいる。その物事をはじめてみるように描写することで、描写された対象は奇異な存在として認知される。描写は迂遠な道を通る。描写は輪郭線だけを与える。「となりあう呼吸」は境界、あるいは輪郭線についての話だと私は読んだ。
 繰り返す。描写とは異化表現を多分に含んでいるように、思われる。私がはじめて触れた小説指南の文章は今はすでに閉鎖されてしまったウェブサイトだった。そこでは、描写とはほのめかしだ、と書いてあった。私の脳裏に浮かぶのは、番号の振られた点が無数に散らばる白紙である。1から順に点と点の間に直線を引いていくと、ある図形が浮かび上がる。丸という図形を浮かび上がらせる方法は三つある。〇の輪郭を描くこと、●の形に塗りつぶすこと。〇の外側を塗りつぶすこと。どれが一番強烈な印象を残すだろうか。恐らくは、真っ黒に塗りつぶされた中に浮かぶ白い月のような丸ではないか。けれど、それが丸を表現したものだと伝わるとは限らない。塗りつぶされた黒に注目が集まってしまうことはあり得ない話ではなく、逃れようもない。

 「となりあう呼吸」は輪郭を描き出そうとしているように私には見える。境界線を引くのでもなく、境界がそこにあると指差すのでもなく、うっすらとした、ぼんやりとした曖昧な領域と領域のはざまを示そうとしているのではないか。
 「となりあう呼吸」はこう始まる。

子供をうむには適さない土地でも子供はうまれる。その日その街で分娩室にはいった親子は二組だけだった。ひとりは夕暮れの始点にうまれ、もうひとりはぼやけた陽を西の地平がじゅうぶんにまきとり終えたあとにうまれた。

 「夕暮れの始点」「ぼやけた陽」ここにはすでに曖昧さがある。この曖昧さはうまれたばかりの子どもの五感の曖昧さと共鳴しており、彼らの感覚が鮮明になるにつれ、揺らぎも消えていく。のちには「夕暮れにうまれた赤子はマヤ」「夜にうまれた子供はモネ」と名付けられたとあり、時間ははっきりと夕暮れと夜という形を与えられる。

 この物語はマヤとモネの統合と別離の物語である、ととりあえず言い切ってしまう。描写が支配的な作品世界において、二人がまったく同一視されてしまうに至るのは、作品世界で重要視されていることは輪郭線だからである。描写が浮かび上がらせるのは、語り手の語っている事象について読者が想像したものである。よって、作品世界に実線で描かれた線は少なくなる。曖昧さはいや増し、舞台上のベールによる湖面の表現が、実際の湖の水面さえと同一視されてしまう。まして、林檎の挿話を考えても、マヤの視点は歪んでいる。
 曖昧さの支配する作品世界で、執拗に強調された対称性によって、マヤとモネは同一化する。東西対称の病院で、あるいは湖=鏡の中で。

 けれど、それをしるすものが言葉であるゆえに形ないものは、小説の中に登場しえない。小説においてはすべてのものが文字という形を得る。街を覆い尽くす煙――二人が自在にあそびあやつる煙――は私にはその象徴に思える。煙とはほんらい形ないもののはずで、「煙」と文字にした瞬間に、文字という形を得てしまうことに覚える感興はおそらく自分だけのもの。煙がけむりであることをつたえる術は言葉にはなく、煙と書いた文字が読者に想像上の煙を伝えるという点で、言葉は描写に似ている。いや、描写が言葉に似ているのか。
 同時に、街に増え続けているもろい身体の子どもたちは、描写と言葉の性質を端的に表しているのではないか。それぞれに異形を抱える子どもたちは誰一人として同じ形はなく、けれど、もろい身体はいつ崩れるとも知れない曖昧さを抱えている。

 そうした描写‐曖昧さと、言葉‐形が規定する作品世界の物理法則(グランドルール)は、三千文字の一段落において最高潮に達する。言葉がマヤとモネの形を誤認することと曖昧な描写の中に、二人のモネの同一化が本当の意味で達成される。モネはモネのことを自分のことと感じ、モネはモネが同じであることを疑わない。異なる場面の出来事が因果として結びつく。

(前略)どうしても靴を強く踏んでしまう。曲終わりに、たん、とつよく乾いたおとが鳴る。鳴ったおとの意味を、モネはじぶんの腹にあいた穴をみて、数秒遅れてから仲間たちに裏切られたと理解する。

 二人のモネが一つの文章の上で重なり合っている。たん、というおとの形がモネの身体に穴をあける。同一化の魔法は解け、モネは「モネ」だった人物が支配人室のガラスを破って落ちていくのを目撃する。捻れた左脚と屈み合わせに右脚を柱に挟まれたモネは、棺に入れられたじぶんを見ても、それは黒焦げていて何かはわからない。以前のように、煙を自在に操ることもできない。

 形を失った劇場では、歌が雀蜂の喉から聞こえている。形ないはずの歌こそが雀蜂を雀蜂だと規定している。

子供たちはじぶんだけのからだで、じぶんだけの踊りを、じぶんのからだでしか踊れない踊りを踊る。

 踊り子は踊る。身体という輪郭線を用いた表現である踊りを。たった一人、同じものなどない自分という身体の形を。もうそれ以上切り離すことのできないもの、最小単位としての individual 踊るために踊る、自由意志。

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