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掌編 「羽の機能について」

 午前五時、目覚ましのアラームより先に目を覚ます。薄明の寝室に、時計の頭を叩いた音が歯痛のように響いた。シーツの衣擦れ、窓の外の鳥、そして耳鳴り。彼をそばやかす全ての音が神経に触れ、痺れる。
 背後で寝息を立てる夫は、何時に帰ってきたのだろう。昨日、私がベッドに入ったのは午前一時だった。
 青ざめた朝の光では、彼の顔色は判然としなかった。煮凝った夜気のゼラチンが、寝室を青く屈折させる。
 寝室の扉を開け、振り返ると、夫は静かに寝返りを打った。
 彼と結婚したのは三年前のことだ。その頃勤めていた会社の先輩に誘われていった飲み会で、彼と出会った。
 昔、親のエゴで芸能事務所に在籍していた時期があった。出演した連続ドラマがヒットして、私は、私という偶像の影になった。そうあること、それが私の生き方であり、望まれたものでもあった。斯く、此れ、然り。投影されるものにへばりつき、どこまでもつきまとうものとして、私は私だった。
 それが通用しなかったのは、彼が二人目だ。
 彼は私を知らないと言った。聡く、けれど鈍い眼差し。あの人に似ている。そう思ってしまった時、そうあることが私には正しいと思えた。
 うん、おいしい。
 みそ汁を一口すすった彼の声は、記憶の中のあの人の声と二重写しに聞こえた。私の握ったおにぎりを三つ平らげると、彼はネクタイを締めて、仕事へ出ていった。
 これが、幸せな結婚生活というものだろうか。分からない。もし、と想像することが許されるなら、私はやはり、あの人とのことを想像してしまう。
 けれど、そこで演じられるのは、今と全く同じものだという確信が、私にはある。ワーカホリックな彼と彼。一番好きなものは何かと問えば、仕事と答える二人。似ているのだとすれば、それは私が、そういう人を好むからなのだろう。
 洗濯籠に入れられた酒臭いワイシャツを洗い、彼が私に与えた一軒家を、時間の許す限り清めていく。昼になれば、食事の用意をし、或いは、近所づきあいでランチへ赴く。その足でスーパーへ通い、夕食の材料を仕入れ、ニュース番組の喧騒の中で調理を進める。夫はいつ帰るか、知れない。
 これは不幸というのだろうか。彼を支えるために家事をする私は、それに満足感を得ることも、苛立ちを覚えることもない私は。
 七時になれば、私は夕食を済ませてしまう。夫の食事を取り置いて、それから私は、昔をじっと思い出す。
 あの人の顔は、彼のものに上書きされて、もう思い出せない。声は、一年前にかかってきた電話のせいで、少し低く響く。あの頃は私もあの人も若かった分、声の響きは、骨を通して聞こえた。今は、贅肉の分だけ鈍い。
 分からないのだ。あの人を愛していたのか。好いていたのか。彼を選んだのは、はたして、あの人への当てつけなのか。私はまだ未練を残しているのか。
 君には翼がある。どこにでも飛んでいける翼が。
 屈みこんだ彼――マネージャーは、まだ小さかった私と目線を合わせて、そう言った。
 あの時の私も、今の私も、そっと肩甲骨へ手を伸ばす。そこには何もないと知っているのに。
 リビングのカーテンが開いている。外は真っ暗闇だった。まるで家全体が、巨大な怪物に飲み込まれてしまったよう。
 くらやみに見えるそれらは、怪物の手先で、窓のサッシの隙間から、じわじわと空気の凍ったこの家に入り込んでくる。
 けれど、またたきすると、そんな幻想も消えてしまった。曇り一つない窓ガラスの向こうは、あたたかな光の漏れる隣家の庭だった。
 もし、翼があるのなら。
 私は、包み込む夢を見る。やわらかなものを胸に抱いて、それをあたためる夢を。
 だから、もし、翼があるのなら、私はその羽で、きっと色々なものを集めるだろう。ガラクタも、宝石も、思い出も。
 私に生えているのは、空を掻く翼ではない。地面を掃く羽根帚、それが私の、今はない翼の形。
 ごめんなさい。私は、自分で自分の羽を毟ってしまった。もう、必要なかったから。
 空から見た景色は綺麗だったけど、それを一緒に見る相手はいなかった。
 背中を押してくれたあなたは、やさしい人だった。きっと、重荷になると知っていたから、あなたは並んで歩いてくれなかったのでしょう。
 待つのは嫌いじゃないのだと、あなたは知らなかったのだろうけど。

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