日記 2月3日

 このところの恒例で、仕事終わりに熱が出ます。だんだんと条件は分かってきたのですが、対応のしようがなく、困惑。

 さて、今日は千疋屋で頼んでいた林檎と金柑が届きました。想像を超えるものを探すために、生活を見直そうということで、まず一つ目のチャレンジとして高級フルーツを頼んでみました。季節柄、まだまだ果物の時期ではないので、この一年、それらを楽しみにしていこうと思っています。
 で、味の方ですが、まあ林檎は林檎だな、というのが正直なところ、ただ香りはかなり良く、包装を開けた瞬間に良質なサイダー(siderの語源は確かリンゴ酒だったはず)の香りがして、思わず、おおと声が出ました。五玉で約9000円でしたが、この味なら市販品で充分という感じでした。感じとしては、一玉100~200円の林檎を買って、当たりの林檎にあたるとこの味という具合。
 次は熱を加えたら、どうなるか。確かめてみようと思います。

 一方金柑は皮がかなり薄く、味も濃厚で、安い金柑にありがちな苦みがまったくなく、こちらは値段相応の味という印象でした。まだ一玉しか食べてないので、詳細はまた後日でも。

 料理というのはこれほど身近で誰もが気軽に追及しているはずなのに、技術の粋を集めた最高級品を食べようとすると、これほどまでに敷居の高いものはない。たとえば書籍であるなら、1000年も読まれ続けた大作が、ほんの1000円も出せば買えてしまう(何ならネット上に無料で公開されている)のに比べて、レストランや料亭は場所を選ぶ点でアクセスが限られるうえ、高いからと言って味が保証されているわけでもない(高いお金を払わなければ、ある一定以上の美味しいものは食べられないわけですが)。
 一番手軽な美食は、おそらく自分で料理することでしょう。何効果というのか忘れましたが、人間は自分が苦労して作ったものを過大評価してしまう癖があるので、客観的に他人が作ったものと自分が作ったものの味がまったく同じなら、自分が作ったものの方が美味しく感じるわけです。

 去年一年、付き合いでラーメンを食べる機会が多かったのですが、どれも75点を越えない。満点に近いと思っても、それは650円でこれが食べられるなら、という注釈付きであり、それはラーメンを食べているのではなく値段を食べていることになる。不思議なのは、ラーメンを構成している要素は、料理の理想形の一つであるはずです。それなのに一定以上の美味しさが表現されることはなく、世に広まっているのは、無限に味変を楽しめる家系か、油と塩味のきいた豚骨ラーメンであることを考えると、何とも虚しくなります。ラーメンとは将棋でいうところの棒銀なのかもしれません。はまれば強力ですが、あまりに一直線な攻めのため、完璧な受けをされると通用しなくなる。棒銀を利かせるためには並大抵でない工夫が必要になります。
 この話が分からない人は、ぜひ棒銀を調べて、将棋を指してみてください。棒銀万歳。

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