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ホラーでありがちな「そんなことある訳ないだろう」について

 最近、オール読物新人賞に送るための小説について考えていた。
 自分の実年齢よりもオール読物の読者の年齢層は高いだろうと思い、かといって、中高年以降を狙い撃ちする小説が書ける訳もないと悩んでいた。

 ちょうど、その頃、ツイッターの相互フォローの方が新作を投稿していて、それがホラー小説だったので、いっちょ自分もホラーを書いてみるか、と一日、ホラーについて考えていた。

 といっても、別に一日程度の付け焼刃で何かが語れるとも思っていない。事実、ホラー小説がとん挫したので、こんな記事を書いている。余談だけれど、ぼくはとある事件以来、ホラー小説は書かないと決めている。
 ぼくが小説を書くのは大抵夜で、しかも天辺を回ったあたりからでないとエンジンが回らない。学生の頃、その日も、明日が休日だからと丑三つ時までベッドに横になって、小説を書いていた。
 小説の中身は、ちょうど小説の肝になる幽霊の過去話を手掛けた所で、ここからいよいよ面白くなるぞ、と思いつつ、筆を走らせていた。

 すると、特大のラップ音がちょうどベッドの真上の天井から鳴り響いた!

 めっちゃ怖かった!!!!!!!!

 以来、ぼくはホラー小説を書くのをやめた。昨日に至っては、ツイッターのタイムラインで、ホラー小説を書いている方のツイートが流れてきて、ポルターガイストのシーンを書いていたら、パソコンがフリーズしたという内容だった。

 ぼくはホラー小説には何かを引き寄せる力がある、とあの事件以来信じている。だから、ぼくはホラー小説を書きたくないのだ。

 閑話休題。

 ようやく本題だけれど、ホラーもの(小説に限らず、音声、映像作品)において、超自然現象に対し「そんなことある訳ないだろう」というセルフツッコミを入れてしまう現象について考えたい。

 もう少し具体的に記そう。

 例えば、自らの体験談を語る怪談話がある。そこでは、いつ、どんな場所で、何が起こったのか、が順を追って語られる。夜、廃墟で、ヒト型の白い靄に追いかけられた、と。

 そこでついやってしまう(というか、やりたくなる)のが、「だけど、少し待ってほしい。その白い靄はぼくの幻覚ではないのか、と思う人もいるだろう」と、現実的な批判を物語の中へ持ち込んでしまうことだ。

 これは原理的に言って、語り手が恐怖体験をした後の時系列から、語っていることが原因で、物事を批判的、客観的な視点から記述しなければ、その妥当性を担保できない小説、ないしは文章という媒体の持つ哀しい性なのだ。

 「私はかわいい」という自己言及が、語り手である女性のかわいさを保証しないといえば、分かりやすいかもしれない。

 この現実的な批判を物語に持ち込む行為の是非は問わないとして、「こんなことある訳ないだろう」と小説自体が自己言及することに、どんな意味があるのだろうか?

 まず、ホラー小説を読みに来ている読者は、怖いことが起きるのを期待している訳で、「こんなことある訳ないだろう」はそんな読者を冷めさせてしまわないか?

 ぼくは冷める。実はこの文章はこれが言いたいだけである。ぼくは冷めるので、やめてほしい、と。

 だが、少し待ってほしい。もしそれが、読者を冷めさせてしまう悪文なのだとしたら、どうして、ここまで多くの作品に広まっているのだろう?

 ぼくは主に三つの理由が思い浮かんだ。

 まず、語り手の心情の描写として。
 どんな物事にも分析や批判を加えたくなる、論理的思考の人物を表現する際に、この自己言及的文章は役に立つ。「怪奇現象など、現実にはあり得ない!」と叫ぶ人物が、恐怖に陥れられていくというのは、それだけで面白い。

 次に、小説の技術としての利点。
 「そんなことある訳ないだろう」と語らせることによって、その続きを語りやすくなる。

 上の白い靄の話で、少し考えてみよう。
「白い靄に追いかけられた。それはぼくの幻覚かもしれない。だが、この通り、掴まれた右手にはくっきりと痕が残っているのだ」

 という風に、一度、否定的な言葉を挟むことによって、話が展開しやすくなるというのは、かなり有名な方法論だと思う。

「十二時の方向に敵影、あれは……ゴジラです!」
「莫迦な!」
 デデーン!
 ゴジラのアップ。空に向かって吠える。

 少し、ふざけすぎだろうか? けれど、莫迦な、と挟むことによって、何となくテンポが良くなっているのは感じてもらえるのではないだろうか。
 とまあ、こんな風に一人称の語りにおいては、自己言及の批判を織り交ぜて、次の言葉を導き出すという技術は有用だと思う。

 そして最後に、その自己言及が作中の超自然現象への解釈に揺らぎを生む、という点。先ほども語ったように、自己言及はそれ自体の正しさを担保しない。いや、それどころか疑わせる効果まで持っている。「私はかわいい十二歳の女の子!」などと書いてあったら、現代の読者はこう思うに違いない。「ネタか?」と。

 ここで語りたいのは、「そんなことある訳がない」とホラー小説が自己言及することで、作中の「現実」が「幻覚」である可能性を秘めてしまうということだ。
 私が見たものが本当かは分からない。けれど、私はこういう体験をした。その話を今ここでしよう、と語られる作品の揺らぎ――この怪奇現象は本当にあったのかもしれないし、なかったのかもしれない――は、ホラー作品を単純に面白くするし、本当にあったことだと信じ込ませるよりもはるかに簡単だ。

 さらに付言すれば、そのように揺らぎを発生させることによって、それは現実をも侵食し、あれはこちらの世界でも起こりうることなのかもしれない、と錯覚させることも可能だろう。
 この時、本物か、幻覚か、という二元論の両極は、現実と作品という対比構造とパラレルになり、それぞれがそれぞれに限りなく近い存在になるのではないか。

 さて、もう書くこともない。
 今回、この記事を書こうと思ったのは、ただ単に、そう書くことが手癖になっていないだろうか、ということが気になったからだ。もちろん、自戒の意味を込めて。

 何となく、誰もがやっているから。或いは、前も同じようにして上手くいったから。というだけでは、面白いものは作れない。
 今回のことはホラーの門外漢だったから、自分にも気付くことができたが、では他のジャンルではどうか、と言われれば、自分も一つ一つ、立ち止まって考えられているか、というと疑問だ。

 これからはこういう記事をほぼ毎日、くだらなくても書いていこうと思う。まあ、小説については何かと考えているので、大丈夫じゃないかな、多分。
 文体については、その時書きやすいもので書くので、今日と同じものが出力されるとも思わないので、過度な期待やプレッシャーを感じないで、気楽に書いていきたい。

終わり

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