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手触りを確かめる。

 六日目にして、書くことがなくなりました。

 まあ、気張らずに雑談でもします。

 最近、短編の新人賞の締め切りがあって、推敲をすることが多かったのですが、読み直して、文章を直すレベルの推敲よりも、構成から直さなければならない推敲が多い、ということに気が付きました。

 つまりは、準備不足ですね。もっと丹念にプロットを組んで、小説を書けば、そういったこともなくなるのでしょうが、先をかっちりと決めて、文章を書くと、自分が苦しくなってしまうので、どうしたものかと悩んでいます。

 ぼくの中の文章を書くよろこびは、頭の中の風景を描ききれた時と、先の分からないものをどうにか次につなげて、紡いでいくという面白さにあります。

 なので、小説を書くというよりも手遊びをしている感覚に近くて、ぼくの場合は小説を書くために文章があるのではなく、文章を書くために小説を必要としているのかもしれません。

 実際、この二日間に書いた記事は、かなり楽しく書けましたし、小説の一節に使っても、遜色ない出来だと、自画自賛ながら思っています。

 結局、ぼくが注目する点というと、それは表現であり、どのように描くか、という問題意識なのでしょう。

 勿論、全ての創作物はそうならざるを得ない状況にありますが、何を描くかという部分が希薄すぎて、どれも同様に無価値に見えてしまって、描くべきものを見つけ出せない、というのはぼくが創作を始めてから一貫している悩みです。

 書くべきことがあるから、取捨選択がある。ならば、書くべきことを持たない人間は、何についても書けるのか、というとそれはどうなのでしょうね?

 少なくとも、ぼくの場合は、無意識の選別が始まってしまって、何についても書くことができません。これを書くのは自分でなくてもいいとか、これを書くには知識が不足しているとか、ありきたりで陳腐だからダメだとか、理由を付けては書かない。

 ぼくが手にしてうれしいのは手触りであって、ファンタジーやサスペンスの形をしているからといって、心惹かれたりはしないのです。

 ただそれを手に取ってみて、どんな感触がするのか。タオルケットの手触りや、金属の冷たさ、よく磨かれた木のなめらかさを手のひらで感じるように、文章を楽しみたいだけなの、かもしれません。

 まだ、自分でも分かりませんけれど。

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