文体模写の遺伝子

 これは半年ほど前、夏目漱石の「三四郎」を読み返した時のことなのだけれど、森見登美彦さんの「四畳半神話大系」は、「三四郎」と世界観を一にしているのではないか、とぼんやり考えた。

 「三四郎」において、注目されるのは大抵新しい女こと美禰子だけれど、その美禰子と三四郎が関係をするきっかけとなるのが、与次郎という三四郎の同級生であることは、あまり知られていないのではないか、と思う。

 そして、この与次郎という学生は、実は四畳半の小津のモデルなのでは、というのがぼくの見立てである。が、そこが今日の本題ではなかったりする。


 八年ほど前になるだろうか。ぼくはよくワナビスレのまとめサイトに出入りしていた。目的はもちろん、どうすれば小説を上手く書くことができるのか、を知るためであり、そこにはそれぞれのワナビたちが考えた、あるいは有名作家が語った練習法が紹介されていて、学生だったぼくには非常に刺激的なサイトだった。

 そこでは、一つ奇妙な練習法が掲載されていて、ぼくは少し興味を持った。

 その練習法は、写経、と呼ばれるものだった。

 写経とは読んで字のごとく、自分がいいと思った小説を書きうつすというもので、それをみた当時のぼくは、その意味の分からなさに戸惑い、そして、無視することに決めた。そんなことが小説に何の効果をもたらすのか、と。

 だが、時が経つにつれて、ぼくの考えも変わってきた。写経というぶっとんだことはしないけれど、文体模写というのは楽しくて、時々やったりする。夏目漱石のように特徴のある文章は、特に上手く真似ができると面白い。

 また、文体模写をして小説を書いた時、自分自身、思いがけないものが書けてしまう時がある。手癖で書く小説は大抵似たような形をしていて、自分でもうんざりするのだけれど、少し文体が変わっただけでも、何か新鮮な気持ちがするものだ。

 さて、ぼくがここで何を言いたいのかというと、ぼくらの出力装置というのは、実に脆弱に過ぎるのではないか、という疑問だ。

 ぼくはどんな人間でも一冊だけならば、小説は書け得ると思っている。それだけの豊饒な魂が、人という器には宿っているのだ、と。

 この辺りの考えは大塚英二氏の論考に依っている部分が多い。人はある枠組みを与えられると、その中で自由に創作を始める。一年ほど間にネット上で流行った「魔女集会で会いましょう」などは、その顕著な例だと思う。

 そして、そんな豊饒な魂を表現するにあたっての問題が、上述した出力装置の非力さである。

 これを克服する一つの方法として、文体模写があるのではないか、というのが、今回のまとめである。

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