BFC5落選展感想 41~50

 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

以下、感想です。


41、「あんたには分からない、から、ん?、まで」げんなり

 まず、謝らなくてはいけないけれど、私は前衛芸術に対して、語る言葉を持っていない。
 所謂、あいうえお作文、といった趣だろうか。女、男、僕、続く二行という形式があり、あ行から、わをんまで、それが続いていく。制約がある以上、文章に作意が見られてもおかしくないと思うが、気にならないのは筆力が高いからだと思う。


42、「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 小説というのは具象を使って、抽象を書けるのが面白いと思う。「国家」や「思想」は言葉という具象を使った、最も小さな抽象だ(言葉自体が既にそういう性質を持っているものだけど)。
 作者は抽象性とイメージ喚起力という、一見、相反するような性質の文章を書くのが上手いという印象で、それは、BFC2の本戦作も、そういう文章だったと思う。
 分かる部分と分からない部分を、交互に読んでいくような感じで、冒頭から具体的な文章で始まるのに、その裏に隠されたものがある、と感じながら、読み進めていくことになった。その裏側に流れているエネルギーが、とても魅力的だけど、読者として触れ合える部分は多くないように感じた。


43、「ダダダダダ」まか

 死と、それを理不尽に運ぶ暴力に対する小説だと読んだ。理不尽こそが世界の素顔であり、それに対する反抗と、幼い抵抗が、死者を悼むように書かれていて、その感覚が若々しく、青春小説のようだと感じた。
 一方で、現実感は薄く、地の文で語られる死と性の関係なども、どこか抽象的に感じられた。とはいえ、それが短所として気になったというよりは、そういう性質を持つ作品だという風に感じられたということが言いたい。
 レイの涙は、その二つが深い断絶の中にあり、引き裂かれることで流されたのだと思った。


44、「犬を洗う」竹田ドッグイヤー 

 高揚や恍惚を伴った語りから、最後、悲劇の香りがぶわっと立ち上る場面の落差がすごくて、読後感に険しいものがあった。不穏な気配は徐々に忍び寄ってきていて(伏線と呼んでもいいのだろう)設計されたものだと思う。
 犬を洗う、行為が「僕」にとって、家族に対する秘密になってしまっている点も、状況を悪くしているのだろうなあ、と読みながら、思った。


45、「オルフェウスⅠ(ローマ数字 一)」辻原僚

 オルフェウスは冥府下りの逸話を持つ詩人(らしい)。アルゴー船にも乗船している(という)。歌の一種がそれぞれ、オルフェウスの逸話をえがいている(のだと思う)Ⅰ(一)とあるから、主に冥府下りに注目した作品だろうか?

春の夜の竪琴の音はいっせいに火魂をほどいてはどこへいく

 火魂とは鬼火のことらしい。この世への未練や情念を”ほどいて”というやわらかさが、”春の夜の”と釣り合っていて、あたたかい。”どこへいく”も前の”ほどいては” の「は」を受けて、一つひとつ、歩みを確かめるような歩調で、背中を見送るような感じを受けた。

地上から付いて来たのか舟底に昏く溢れる臭気の水は

 こうしてピックアップするからには、気になった歌を選んでいるのだけれど、こうまで言葉が出てこないのでは、選んだ意味がない。
 特に気になるのは、”臭気の水”で、臭気とはもちろん、わるいにおい、いやなにおい、の意味。それが”地上から付いて来た”というのは、冥府下りとはそぐわない気もする。逸話に詳しくないので、元ネタを知れば、すぐに納得のいくものなのかもしれない。舟底の昏い水、というイメージが好きだ。

それでも詩は救いになるか? 眠れない冥府の王の自我の減衰

 冥府の王ハデスは、オルフェウスの音楽を耳にし、感動の余り、鉄の涙を流したという。そして、死者であるエウリュディケ(オルフェウスの妻)を連れて帰ることを許可する。
 ”眠れない冥府の王の自我の減衰”
 涙を流すほどの感動を、”自我の減衰”と表現しているのだろうか。あるいは、冥府の理を曲げて、オルフェウスたちを地上に帰すことを、そう言い換えているのかもしれない。職務に忠実な人物の、アイデンティティは仕事に結びついているというから。


46、「馬上風」松尾模糊

 読んでいて、内容より先に、細かい点に目が行ってしまった。砂漠に馬が現れる場面、蹄の音が”パカラッパカラッ”と聞こえてくる点(擬音の平凡さも気になるが、砂のどこに蹄がぶつかり、高い音を立てるというのだろう。ラストのネタバラシを考えると、既に何らかの幻覚を見せられていると解釈することもできるが、それならば、その点を伝えてもらわなければ困る)や、”頭が大きくやけに手足の長い生き物””パピポパピポ”というステレオタイプ。
 オーケストラや合唱団を背景に語りだす馬というビジュアルや、楽隊へ騎馬突撃する場面の鮮やかな分だけ、そういった細かい点が気になってしまった。
 余談だが、馬上風には脳卒中の意味があり、腹上死を意味することもあるようだ(あまり確かな情報ではないが


47、「聖霊言語モデュレータ」灰都とおり

 百合SF作品として受け取ってもいいのだろうか。共感覚的なものも感じた。モデュレータは変調器とのことで、聖霊言語をモデュレータするということは、神託を受けるということなのかもしれない。その意味でいうと、キリスト教的世界観を示唆しておきながら、「あなた」を死なせてしまったのは、作品の傷ではないか、と考えた。
 まず、家族の虐待を明示した時点で、そこから解放されるという文脈が発生している点、次に、キリスト教的世界観から、死後の楽園が連想されることから、「あなた」の死が救いという位置づけになってしまっているのではないか。もちろん、それは「あなた」の視点であって、語り手の「私」は別のことを考えているのはわかるが、抑制のきいた今作の文体では、読者の立ち位置は中立的にならざるを得ないと思う。よって、読者は各々の立場から、「あなた」の死を考えることになり、上記の理由、二点から、死は救いだと感じるのではないか、と私は思った。
 一方で、語り手の「私」は「あなた」のからだ――からだから聴こえる音に、執着しているのが分かる。「私」は「あなた」の断片(記憶している「あなた」のからだの音)を集めて、もう一度、「あなた」をこの世によみがえらせようとする(この行為こそが、聖霊言語モデュレータなのかもしれない)。
 ここに、「あなた」を死なせてしまった弊害が出ていると私は感じる。
 作品の中の「私」の行為が、相手を失ったことで、ひとりよがりで、一方通行なものに感じられてしまった。「私」がもう一度「あなた」と再会するための物語、と今作を読むことは可能だと思う。であるならば、「私」の中にある「あなた」ではなく、「私」が真に出会うべきは、「私」の知らない「あなた」だったのではないか?
 「私」の中の「あなた」は「私」の中にいて、いつでも会えるのだから。


48、「かんわじてん」草野理恵子

 形式は、おそらく散文詩。(半)(震)(長)(背)の四幕(?)から成り立っている。漢和辞典は、部首や画数から字を調べることのできるもので、つまり、今作においての目次のようなものかもしれない。
 (半)は、字としては左右対称だが、フォントや書き手によって、そうでもなかったりする。作品もそういった点に注目(たぶん)していて、鏡像を感じさせる百合の関係であったり、はみ出た脳をモチーフとしていて、特に脳の部分には、ユーモアが出ていると思った。


49、「今日はモモだった」関元聡

 レーカーベアのディがいた。彼は群れに拾われた人間で、まだまだ子どもだった。ある日、毛皮を狙って、密猟者が群れを襲った。ディもレーカーベアと一緒に戦い、密猟者を追い返した。けれど、子熊が一匹と、密猟者が一人、死んでしまった。レーカーベアは死者を食べて、弔う。そんなことを知らないディは、それを拒んで、群れを追放された。ディは、残った死体を埋めて、ぶどうを植えた。
「死んだ生き物は土に返って、ぶどうの実になるから、俺、それを食べます。だから……」
 群れから返事はなかった。それからずっと、ディは一人でぶどうを食べている。

 前置きが長くなってしまった。
 喪失の物語、ライナスの毛布を失くしたライナス。彼は一度ならず、二度までも、拠りどころを失ってしまった。普通に生きているように見える一人の人間の中に、これほど大きな悲しみが横たわっている。
 群れからはぐれても生きていける人間の社会が、やさしいのか、やさしくないのか、私には分からない。彼には思い出を抱きしめるように、ホログラムのロイやモモを抱きしめるしかない。
 実は、レーカーベアのディの話には続きがあるのだが、それはまた今度。もちろん、必要だと思っているから、書いている。


50、「不夜城のサングラス」吉美駿一郎

 開かれた状態で始まって、開かれた状態で終わる。もちろん、終わっていないと評価することもできるだろう。が、この作品は、ここからここまで、なのだ。これ、ですべて。欠けたところもない。充分な満足感がある。
 作家論になってしまうが、この作者は、かぐやSF2大賞受賞作や、「新月」収録作など、労働者の視点を取り入れていて、その生活感のリアリティが、作品の重みを増しているように感じる。レベルスイングという言葉ひとつにも、それが表れていると思った。

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